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神は海に危難と深淵を設けた
だが神が大空を映したのもまたこの海だ  ___フェルナンド・ペソア


海辺の二人/#1.終わりの始まり


 深夜二時を優に回った時のことだった。少し前に時計を見たことをまだ覚えている。身体中が痛い。ナワーブ・サベダーはぼやぼやと鼓膜を打つ音を拾おうとして失敗し、舌打ちした。熱い。脳味噌が茹だるようだ。喝采が遠くに聞こえる。
 アルコールに気心の知れた仲間、出演した作品の成功、全てが波に乗った27歳の男を高揚させるには十分だった。こんな日が来ることを誰が想像しただろう?拳を開き、ナワーブは血がついていることに気づいて顔をしかめた。どこか切ったらしい。撮影で見かける偽物などでは断じてない、本物の血だった。鉄錆の匂いが鼻をくすぐる。
『ナワーブ、サベダー!遥々異国より我が国に舞い降りた、現代の英雄!』
地道にアクション映画のスタントを重ね、軽い身のこなしを生かした脇役から、大型戦争映画の主役に抜擢されたのは本当に運が良かったとナワーブは思う。移民の子供に生まれ、金銭面での苦労が何かと多く、辛酸を舐めてきた。
 困窮は物理的なものだけではなく、どこへ行ってもよそ者扱いを受けるという精神的な苦痛を伴う。さもなければ偽善者めいた同情を受け、戸惑うこともしばしばだ。  今はどうだろう?誰しもがナワーブを見れば褒めそやし、騒ぎ、祭り立てる。掌返しの数々に鼻白んでも、尻の落ち着かない心地は紛れもなく照れ臭さと嬉しさからのものだ。何より、家族や下積み時代の友人たちが自分のことのように喜んでくれたことはナワーブの胸を熱くする。ようやく、ようやくここまで来ることができた。正に今からが大きく帆を張って大洋を進む時だ。
「ナワーブ」
おずおずと声をかけられ、そちらを向くも、まぶたが重くてよく見えない。凛としてよく通る声は聞き覚えがある。スタント仲間にして一緒に俳優へと身を転じた、マーサ・べハムフィールだ。
「大丈夫か?」
野太い声が、むんずと肩を掴んで揺さぶってくる。相変わらず乱暴だな、と思ったあたりでナワーブはようやく理解した。ウィリアム・エリス、やはり同期の俳優がここにいるのは自分が出演した映画の成功をマーサと祝ってくれたからに他ならない。
「今、救急車を呼んでるからな。少し待っててくれ」
「いらないよ」
救急車に乗らずとも、この程度の怪我は自分で病院に向かえば十分だ。大きな図体に反して心配性な友人に、いつもの過大なお節介だと身振りで示す。さっと顔が青ざめたのは気のせいだろうか?なんだって視界が開けていないのか、不思議でならない。まぶたを擦ろうとしたらば、ちょうど鼻からぬるりと血が垂れてきてギョッとした。
「必要なのよ。あなたにも、相手の人にも」
マーサの声が変に塩辛くて、ナワーブはようやく彼女が涙ぐんでいるらしいことに気がついた。あの気の強いマーサが泣くだなんて、明日は雨が降るだろう。いや、泣くほど嫌なことがあったのだ。店から店へと梯子をし、たどり着いたこの店で。奥へと目を移し、ナワーブはようやく事態を把握した。
「そうだな」
ぐったりと伸びた男が複数人、床に血塗れになって伸びている。答えは火を見るよりも明らかだ。
 歓声は遠ざかり、サイレンの音ばかりが耳にうるさかった。


***


『グルカの英雄、友人を守るために闘う!』
『本物の”傭兵”は一般人相手でも本気で闘うべきか?』
『五人相手に大暴れ、全治3週間の怪我!』
『有頂天になったヒーローの大失態』

 ゴミ、クズ、ろくでもない言葉の数々。面白がって踊るような調子が巧みに感情を煽り立てる。ナワーブはその意図を察して眉を顰めると、テーブルの上に並べられた大衆紙の記事からそっと視線を外した。この程度で傷つくことはないとはいえ、何も感じないほど鈍感ではない。これらの記事を、一体どれほど多くの人間が目にしたことだろう。
 深夜に起きた事件は、もはや知らぬものはいない程に広まってしまっている。街中に出れば、ナワーブを指差す人間の概ねは事件のことを口にしていた。要らぬ尾ヒレもついてなんとも世間は喧しい。
 所属する事務所に呼び出されても尚追いかけてくる現実に、ナワーブは足の爪先から頭の天辺まで泥沼に浸かったように気怠かった。
 俳優は、他人に見られることが商売である。観客がいなければ何をしたって一人遊びに過ぎない。俳優を成り立たせるのは他人の耳目に他ならないのだ。もちろん、それ自体を快感だと言い放つ人間もいる。
 では、ナワーブは?自分の理由はまるで違う、もっと即物的なものだ。生まれも、肩書きも、学歴も問わずに一攫千金の機会を掴める道が、偶々俳優業であったからに過ぎない。スポットライトへの憧れとは縁遠く、ナワーブにとってはただの現実の延長線上であった。
 よって、職業柄他人に見られることは何時如何なる時であろうとも致し方ないと割り切っている。一瞬一瞬に輝くコインが、ジャラジャラと音を立ててポケットに詰め込まれる様を想像すれば良い。それでも、今の状況は居心地の悪いものだった。
 会議室の一つに案内されて座るも、一向にそわそわして落ち着かない。事件を報じる大衆紙の数々が並んでいる時点で、自分がなんらかの叱責を受けることだけは明白だ。  もちろん、ナワーブにも言い分はある。反省点もあるものの、何も自分ばかりが悪役とされるのは不公平な見方だ。
散々事情聴取をされ、素面の頭ではっきりと把握した限り、事件の全容は次のようなものである。
 まず、ナワーブとマーサ、ついでウィリアムは千秋楽祝いを遅ればせながらしようと仕事の合間を縫って夜の街へとくり出した。杯を重ねて店を梯子し、まるで小鳥のようにして止まり木でゆらゆら揺れる。酒に強い二人につられ、気づけばナワーブも常にない量を飲み干した。
 そして気分が良いままに移動した、最後の店で事件は起きた。客の一人がナワーブの顔を指差して絡んだのである。
「他所から来た奴が、何時の間にか主役をとるだなんてなあ。平等主義もここまで来れば慈善事業だ」
「……失礼ね」
言われた当人よりも早く反応したのは、もっとも素面に近かったマーサだった。正義感が強く、物怖じしない性格は素晴らしいが、世間を泳ぐには時に窮屈でさえある。
 手振りで気にしない旨を伝えるも、今度はウィリアムが表情を曇らせた。マーサほどではないが、育ちの良いウィリアムはスポーツ選手上りであることもあって、曲がったものを好まないのだ。自分は良い友人に恵まれている、とナワーブはじんわりと胸が暖まるものを覚えた。
 自分にとって、この程度の罵倒は耳にタコができるほど馴染み深い。今更感情を波立たせることはなく、雑音と同じようにして聞き流すことが可能だ。
 おまけにアルコール漬けにされた脳味噌は、周囲の音をぼんやりとしか拾わない。熱い。冷たいものが欲しいと店員に頼んで、アイスクリームでも頼んだ方が良かったなと反省した。今の自分に必要なのは、このふわふわとした気持ちを落ち着かせる冷却剤だ。
「おいおい、そんな腰抜けと飲むよりこっちで一緒に飲まないか?男を見る目ってモンを養わせてやるよ」
「結構よ」
だが、頭を冷やす必要があるのは先ほどの客の男であったらしい。こともあろうに、マーサに対して下手なナンパに繰り出してきたのだ!酒の力で気が大きくなっているのか、とうとうこちらにまで歩み寄ってきている。
 なんて命知らずな。マーサの武術の腕前を思い出し、ナワーブは眉を顰めた。ウィリアムは、というとトイレに行くと言って席を外したばかりである。要するに、小柄なナワーブとマーサならば十分相手取れると判断されたのだろう。全く舐められている。
 足元がふらついている男を、同じく酔った仲間たちが囃立てて騒ぐ。ノミのように些末な連中であっても、寄り集まれば面倒この上ない。おまけに自分は顔が知られている。やりようによっては不名誉な出来事に繋がりかねない。
 もし、自分がまだ無名であれば良かった。ただのナワーブ・サベダーだったらば、家族を多少悲しませると言えども思うがままに動いただろう。今はだめだ。得た以上に失うものが多すぎる。
 まだアルコールに浸り切っていない部分の脳味噌が理性を総動員させて、この不愉快な状況を無視しろと告げる。さっさと店を出るんだ。
「他の店に行こう、マーサ」
「マーサちゃんって言うんだ?残念、マーサちゃんは俺たちと遊ぶんだよ」
すかさず男が入り込む。相手の瞳に浮かぶ色を読み取って、ナワーブはうんざりした。他人の困惑する状況が楽しくて仕方がない、成功した人間を許せない、どうして自分ではないのかと行き場を失った怒りが燃えている。
「ちょっと、しつこいわよ」
「このアマッ」
伸ばされた手をやんわりとマーサが受け流すも、かえって逆効果であったらしい。仲間の嘲笑にたきつけられ、傷ついた自負心を抱えた男の顔が真っ赤に染まる。ここにウィリアムが居てくれたなら。あるいは自分が移民でもなんでもなく、相手を威圧できる見た目であったならば。
 マーサだって、まだ余り名が売れてはいないとは言え、俳優の端くれだ。一般人に手を上げるには躊躇しているのだろう。震えた拳が目に入り、ナワーブは決断の時だと奥歯を噛み締めた。厄介ごとに関わりたくないという素振りの店員が、黒ビールの入ったジョッキを置いて行く。
「俺の友達から手を離してくれ」
「は?今更お前と話すことなんてねぇよ。俺たちから仕事を奪った泥棒みたいな連中に、言葉なんていらないね」
男がしつこくマーサの肩を抱こうとする。その手を払い退けて、ナワーブは尚も喚く男を床に転がした。限りなく優しく、怪我をしないように配慮できたのは理性の賜物だろう。マーサが息を呑み、酔客の仲間たちが立ち上がる。
 帰ってくれ、行かせてくれと心の底から願った。ただ転んだだけだ、くらいの言い訳で逃げ出せたならばどんなに良かっただろう。現実はさらにひどい。マーサの足が掴まれ、転がされたのを目にした時には全てが決まっていた。
黒ビールは床にぶちまけられ、拳が唸る。殺さないように、怪我をさせないように、手加減ができないのは素人の常で、武器にすべく酒瓶を割った客が両手を血塗れにして喚いた。あの手の瓶は、割り方そのものに工夫が必要なのだ。映画と現実はまるで違う。自分は両方を知っている。
 顔を殴られて、軽い脳震盪を起こしたところまでは覚えていたが、残りは無我夢中だった。多分、抵抗しなければもっとひどい状態だったろう。マーサとウィリアムがなんとか割って入って収めたが、全ては後の祭りだ。
 ナワーブの顔には勲章がついた。相手は擦り傷から全治3週間の怪我まで様々だ。ナワーブよるものではなく、加減できずに自滅したものが殆どだろう。それでも彼らは失うものが一切ない。救急車、警察、事務所に家族が勢揃いして、華々しいまでに噂は世間を飛び交った。数日前まであんなにも称賛の嵐で渦巻いていたのが嘘のようだ。
 反省しているか、と言えば、もっと早くに店を出るべきだったという程度の後悔はある。自分だけでなく友人をも侮辱された(実際、記憶に残したくないような言葉の数々が投げかけられたのだ)上に、場合によっては生命の危機に瀕していたのだから、過剰防衛程度の評価で許してもらいたい。実際警察はどちらがより悪いという判断は下さず、話は無事についたのだ。
 とは言え、間に入って交渉をした事務所が本人にどう落とし前を付けさせるか、は話が別である。事件を起こした時から、ナワーブはいく通りもの想像をめぐらし、自分の頭では限界があるとサジを投げもした。
 結局、あの店に入ったように運命とは自分の力だけではどうにもならぬ部分もあると認めざるを得ない。謝罪をし、損害賠償の類があれば粛々と受け入れよう。既に事務所には事情説明と謝罪を行ったとは言え、事件の事情聴取から解放されて以降に足を運んだのは初めてだった。
 ここで職を失うのか。頂点にいた時間はあまりにもわずかで口惜しい。いくら俳優になったことが偶然の賜物だとしても、啜るべき甘い蜜はもっとあったはずだと言う苦さが胸に押し寄せていた。
 喜びから一変、深い悲しみに包まれた両親が頭に浮かぶ。移民街で、ナワーブの名を誇らしげに語った小さな弟妹はどんな気持ちだろう。暴力沙汰自体は十代の頃にもしばしばあったものだが、過去を洗い流した今では雪よりも白くあれと気を遣っていた。
「お待たせしました。すみませんね、会議が長引いてしまいまして」
どう料理されるか想像ばかりが膨らみ、宙ぶらりんのまま三十分は待たされただろうか。キィ、と扉を開いて現れた細長いシルエットに、ナワーブは自分の立場も忘れて鼻を鳴らした。
「全く、考えなしに話す人はごめんですね。無粋です」
入ってきたのは、時代遅れとも言えるトップハットに、燕もかくやと言わんばかりのひらひらとした礼装という、道化よりも人目を引く人物だった。のっぺりとした仮面を被っているのが異様さをさらに引き立たせている。誰あろう、ナワーブをこの事務所に招き入れた芸能エージェントのリッパー、その人だ。
 この男であれば、大衆紙の数々を机の上に置いた状態で渦中の人物を放置するなど平気でやってのける。どんな嫌がらせが自分の身に降りかかるのか想像して、ナワーブはブルリと背筋を震わせた。かつて、芸能界の先輩方にもちらほらと噂を聞かされたことがある。
 曰く、リッパーの逆鱗に触れれば文字通り内臓まで抜き取られてしまうと言う。しかし、彼に気に入られたらば最後、芸術の神が見放すまでスポットライトの加護を得られるのだ。さながら悪魔のような話だが、人間離れした見た目と不気味な語り口は人を信じさせるに十分な材料を提供していた。
 返事もせずにヤキモキするナワーブの態度など少しも気にせず、リッパーは椅子に腰掛けるなり手にした冊子をこちらに渡した。真っ白な紙の束。表紙に触れるだけでも何であるかがわかり、ナワーブは指を強張らせた。
「何、これ」
もっと丁寧な口を聞こうとしたはずが、普段の生意気な調子が漏れてしまう。それほどまでに渡されたものは異様だった。恐ろしすぎて、ページをめくる気にもならない。
「もちろん、次の仕事の脚本ですよ。ウチは遊ばせておくほど余裕がありませんので」
「……仕事って」
一体何を言っているのか、とナワーブは自分の耳を疑った。つい先日傷害事件を起こした人間に寄越すセリフでは到底ない。
 肩を竦めたリッパーは、奇妙なことを聞いたとでも言うように首を傾げる。そんな些細な動きさえも芝居じみていて、ナワーブはどこかに観客がいるのかと周囲を伺った。 「あなたを解雇した覚えはありませんからね。あ、辞めます?」
稼いでもらいますよ、と悪魔は至って事務的に話を続ける。大袈裟な仕草は舞台俳優そのものだ。これまた噂に過ぎないが、リッパーはかつて舞台俳優であったとも言う。上背がありながらも優美であり、声も朗々とよく通るものだから、あながち間違いではないようにも思われる。人の注目を引く理屈を心得たやり口は、並大抵のものではない。
 だが、一度見たらば目に焼き付けられそうな人物を覚えている人間がいない上に、記録にも残っていないとは奇妙な話だ。まるで幻か、幽霊か。いつぞやリッパーに、教養として教えられたオペラ座の怪人が頭を過ぎる。かの醜悪にして純粋な仮面の男を演じるには、彼こそがうってつけだろう。
 一頻り現実逃避をした上で、ナワーブはゆっくりと悪魔の問いかけを否定した。機会があるならばどこまでも掴むまでだ。スポットライトも、周囲の評判もどうでも良い。大事なのは、徹頭徹尾いかに稼ぐかに尽きる。
 ちらりと大衆紙に目をやり、ナワーブはデカデカと映し出された自分の写真にため息を漏らした。あの深夜に血塗れとなった無防備な姿だけでなく、ご丁寧にも公開終了したばかりの映画の宣伝ポスターと並べているものまである。そもそもいつ撮影されたのだろう?茫然自失となっていた自分に腹が立つ。わかりやすく、するりと目に入って脳味噌に響く構図は、流石その道で食べているだけはあった。人の心は移ろいやすい。
 だが、しばらくはナワーブとこの光景とを結び付けずにはいられないだろう。そんな自分に一体どんな仕事を渡そうと言うのか。
「ああ、これね。この程度、どうってことありませんよ。確かにあなたはやり過ぎ――だいぶやり過ぎましたけれども、相手に非がないわけではありませんし。知ってます?移民政策について議会で話題に上がってる最中なんですよ。その矢先にこれでしょう。人権保護団体からも注目を浴びています」
「……つまり?」
難しい話は苦手だ。もっと世論についていくべきだと父が話していた理由を、今更のように理解する。並べ立てられる言葉が自分にとって有利か不利かさえ判断できない。リッパーはヒャラヒャラと笑い声を上げ、長く鋭い爪を生やした指を一本掲げて見せた。
「自分が馬鹿にされても気にせず、お友達を助けた人間は、そう悪くない、って世間が思っているってことです。むしろ正義感が強いとでも売ればイイじゃありませんか。あの映画のテーマにもぴったりですしね」
「なるほど」
苦境さえをも錬金術にすり替える手口に、ナワーブはますます魔物めいたものを覚えてぞっとした。自分は一生わからなくて良い。ともあれ、安心はできそうだ。脚本に手を伸ばし、悪魔の勧めに従う。
 冒頭に書かれた企画概要はこうだ。
『遠い異国で、見知らぬ俳優同士が共に一ヶ月、生活を共にする。食事を作り、周囲を観光し、人と交わり、祭りに参加する。そのすべてのありのまま、自然な姿を視聴者に届け、異国と俳優の双方の魅力を伝える。』
 やや散文的な内容に、ナワーブは首を傾げた。自分に持ち込まれる仕事はこれまで、わかりやすい勧善懲悪のアクションものばかりだったのである。情緒的な側面はいつか養わねばならないだろうと考えていたが、それにしても心温まる交流ものと言うか、他人の感動を目的とした作品は今の自分に釣り合わないように感じられた。
 どんな酔狂か見てみようとページをめくり、飛び込んできたのは美しい赤茶色の屋根を被った建物が並ぶ街並みの写真郡だった。玩具箱の中のように、オレンジにピンク、黄色に緑と塗り分けられた壁が目を楽しませる。空の青が綺麗で思わずため息がこぼれ出た。街の中心地にある教会、かつて敵を退ける目的で作られた迷路のような道、漁港にたむろする人々、野良猫に見たことのない御馳走の数々。キラキラ光ったモザイク画のようなものは特産品だろうか。これではまるで観光雑誌だ。役作りや作品への理解を深めさせるための資料にしても簡素に過ぎる。
 だが、ページをめくってもめくっても、綴られるのは異国の言葉や地図、写真ばかりでセリフがない。俳優にセリフがない脚本を渡すならば無言劇ということになるが、ありもしない想像をナワーブは否定した。最初のページにあるではないか。
「リアリティ番組なのか」
「そういうことです。あなたの人柄を広める良い機会でしょう?」
リアリティ番組。それは、大筋こそ用意されているものの、あとは出演者の素の反応を楽しむ作品である。否、『作品』ですらなく、出演者が俳優である必要性も低い。俳優とは、他人の仮面を被った、作品の代弁者の一人だ。自分こそが作品として売りに出されるとは本末転倒である。
 しかし、今のナワーブは素の自分を傷つけられたばかりだった。覆すには一度洗い流し、書き換える方が手っ取り早い。印象には印象で。
 自分の考えを伝えれば、リッパーは当然とでもいうように軽くうなずいた。もとより断られるつもりはなかったのだろう。覚悟は決まった。稼ぐために、まだ行ける道があるならば向かうまでだ。
「それで、俺は誰と暮らすんだ?」
「最後のページにありますよ。見てごらんなさい」
悪魔に誘われ最後から脚本を開く。物語の終わりには何が待っているのだろう。
「クリーチャー・ピアソン……」
「あなたの同僚に当たります」
同じ事務所に所属するらしい。見覚えのない、薄い顔をした男を、ナワーブは無害と判断することにした。自分であればこの程度の体つきの相手は簡単に御せられるだろう。異国での二人暮らしに、むさ苦しい男が相棒とは気分が盛り下がるが、自分の引き立て役だと思えば心地良い。
 俳優としての自分は一度死んだ。そしてここから、新しいナワーブ・サベダーを送り出す。この仕事は自分の葬式で、再生の儀式となるのだ。
「せいぜい楽しませてくれよ」
クリーチャー。知らぬ男の顔を指でなぞると、ナワーブは意気揚々と契約書にサインした。



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