海辺の二人/#4.ロミオとジュリエット
頬を撫でる陽光が、全身にエネルギーを送り込むようにして目覚めさせてゆく。夢現のナワーブは、今日はどんな仕事が入っていたかとおさらいをした。スポーツ飲料のポスター撮影?ダイバーズウォッチの広告の打ち合わせもあった。それから、今後の映像作品の出演をかけたオーディション候補の選別という、半ばワクワクし、半ばうんざりするような作業もある。やることは山積みで――
「今何時!」
がばりと起き上がり、時計を確認しようと部屋を見回したところで何かがおかしいと気がついた。いつもの壁に、鶏が飛び出す時計がかかっていない。そもそも壁が眩しいほどに白く塗られている。太陽を全面に感じたのは、開けっ放しのカーテンから入り込んだ光が、この壁で反射したためだろう。寝ぼけた頭で数十秒、サイドテーブルの時計を見つけてナワーブはため息をついた。
広告も、映像作品も今の自分には当面縁がない。あるのはここ、新たなる新天地での日々である。
「確か、起きたらつけないといけないんだっけ」
なんとか起き上がり、書斎机の上に載ったカメラのスイッチをつける。撮影開始になっていることを確認し、ナワーブは髪の毛を撫でつけてカメラの前に座った。
「えー、おはようございます。今は……朝の八時。思ったより疲れてたみたいです。昨日の夜は、ジュリオさんとピアソンさんと美味しいバカリャウ料理が出る店に行きました。食べすぎてまだ鱈がお腹にいる気がします」
昨晩はジュリオに任せていたが、無事に撮影できていたのだろうか?地元の人間たちで盛り上がる中で、おずおずと互いを確かめるようにしてクリーチャーと食事の話をしていたことが思い出される。人見知りが激しいのか、時折上目遣いで話す年上の男というのは新鮮だった。
「ピアソンさんはどうしてるかな?昨日はポートワインを飲みすぎて、酔っ払ってたのを連れて帰るのが大変だったのは覚えてるんだけど。様子を見に行ってきます」
撮影を止め、電源を切る。一人で話し続けるなど、頭がおかしくなってしまったようで不安でならない。最近ではインターネット上で実況放送を生中継する俳優などもいるが、役ではなく自分を誇示するような真似は不可思議で、ナワーブは手を出していなかった。
自室を出、薄いベージュ色の家具が揃った居心地の良いリビングルームにたどり着く。顔を洗うよりも先に、昨晩泥酔した相方の様子が気になって仕方がなかった。それほどまでに、クリーチャーは酒にどっぷりと浸かっていたのである。
ポートワインにマデイラワインと、この国のワインは飲みやすくスイスイと進んでしまう。塩気の強い料理との組み合わせが一層人を急かすのではないかとナワーブは思った。酒での失敗とも言えるあの事件がなければ、きっと自分も存分に飲み過ごしただろう。
昨晩は久々に肩の力を抜いて他人と食卓を囲んでいた。誰にも指をさされず、間違ったことをしていないかと気にすることもない。楽しむようにとジュリオは言っていた。楽しんでも良いかもしれない、そんな気にさせる始まりだった。
「ピアソンさん」
扉を軽くノックし、声を掛けるも反応は伺えない。もしかしたら、昨日ベッドの上に転がしたままだろうか。本当ならば、どちらか好きな部屋を選ぼうと素面の時点で話していたにもかかわらず、昨晩はそれどころではなかったのである。
「入るよ」
意を決して入り込むも、薄暗い室内に変化は見られない。仕方なしに窓際に寄り、カーテンを引いた。
「ピアソンさん、朝だよ」
「ん」
起きただろうか。辛うじてシーツを被るまではできたらしい、ベッドの上の山を突いて、ナワーブはふと机の上に目を止めた。どうせならばこれも余興にしてやろう。起きなかった罰だ、とナワーブはクリーチャー用のカメラを弄った。
「今から、ピアソンさんを起こそうと思います。よく寝てる……海外旅行は初めてって言ってたから、疲れてるのかもしれません」
酒を飲みすぎたとは言いにくい。うまく写っているだろうかと意識しながらも、ナワーブは目の前の玩具に専念した。淡いグレーのシーツの上から山を揺さぶり、かつて母がそうしていたように声をかける。
「ピアソンさん、ピアソンさーん、朝だよ。起きて」
「うー……なあ、今日何か……か?」
完全に寝ぼけている。自分も同じ思いだったものだから、自然と笑みがこぼれる。
「今日はカフェで朝ごはん食べて、市場の観光ツアーにジュリオさんが連れてってくれるよ。昨日バカリャウが見たいって言ってたの、覚えてる?」
「バカリャウ!」
「うわっ」
唐突にベッドが揺れると、酒臭い生き物がどんと飛び起きた。呆気に取られているナワーブを他所に、混乱した様子のクリーチャーがあたりをキョロキョロ見回す。きっと自分と同じで、見知らぬ場所にいることが理解しきれていないのだろう。愛嬌のある仕草を宥めるようにして腕を軽く叩くと、ヒュ、と小さな悲鳴が漏れた。
「何、起こしてあげた人にそんな態度はダメだと思うな」
「……夢じゃなかった」
「夢じゃないよ。おはよう、ピアソンさん」
「おはよう、さ、サベダー君」
一瞬言い淀んだのは、自分を名前で呼ぼうか迷ったからだろうか?目を泳がせるクリーチャーに不安と、言い知れぬ暖かいもので胸がキュッと締まる。もやもやとして気分が悪い。
「先にシャワー入って目を覚ましたら?俺も出かける支度してくる」
「ん、あ、わかった」
流石に意味が通じたらしい。自分の袖の匂いを嗅ぐと、クリーチャーはうう、と顔を顰めた。そんな無防備な様も全てカメラに収められている。いつしか自分以外の、世界中の誰だって見ることができるのだろう。何も知らないクリーチャーがおかしくて、ナワーブは去り際にカメラを指差してから電源を落としてやった。
「それじゃ、また後で」
背後で悲鳴が上がったような気がしたが、これも仕事と諦めてもらうより他にない。クリーチャーが押しかけてくる前に顔をさっぱりさせて、着替えるとしよう。昨日はずいぶん暖かかった。Tシャツにチノパンという楽な格好はどうだろう。有名になってからは少し気をつけるようになっていた身だしなみも、今回ばかりは忘れようという気持ちになっていた。鐘の音が遠くに響く。
捻った蛇口から流れる水にさえ異国を感じて、ナワーブはぎゅっと目を瞑った。
***
朝からこの街は賑やかだ。ジュリオが用意してくれた新鮮なジュースを飲み、クリーチャーはナワーブと連れ立って外に出ていた。目的地のカフェはすぐそこで、地図と手元のスマートフォンを見比べた相棒がサクサクと前を歩く。少し自分より背が低いのだ、ということを今更のように感じてクリーチャーは意外に思った。
背筋がピンと綺麗に伸びて美しい。長年スタントマンをやっていた経験が体に染み付いているのだろう。作品のどれかでは、住宅街でパルクールを行う場面もあったように記憶している。なんにせよ、クリーチャーには到底できそうにもない凄技の数々だった。
だらりとしたTシャツにチノパンというそっけない服装も、姿勢が良いだけで風采が上がるのだとつくづく納得できる。つい猫背気味になるクリーチャーに、フレディが散々姿勢に気をつけろと指導していたのは正しかったのだ。
一方、自分は柔らかな青い木綿の長袖シャツに、適当にトランクに詰め込んだ何かのズボン(多分、昔ジョーカーが余りにも服を持たない自分に押し付けてきたものだ)、さらには底がへたったランニングシューズと見劣りのする状態である。髭を剃るのは今日こそ上手くいったので、こざっぱりとはしているはずだ。
カメラを構えたまま、足早にナワーブの背中を通り過ぎて隣に並ぶ。地図と通りの名前を見比べていた青年は、カメラに気づくとほんの少しだけ緊張を顔に走らせた。
「あとどれくらいで着きそうだ?」
掛ける声は、可能な限り柔らかに。まだ眠気が残るものの、相手を思いやる気持ちはクリーチャーにも残っていた。こちらの想いが伝わったのか、ナワーブは口角を上げて、建物の壁に据えられた、通りの名前を示す看板を指さした。
「地図の通りに歩けてたら、二つ目の角のあたりだよ。……あ!あれじゃないかな?」
「どれどれ」
ナワーブが見る方向へとカメラを向ければ、目にも鮮やかなコバルトブルーの壁が目に入る。ジュリオが目印にするよう伝えてくれたのだ、とナワーブは地図に書かれた走り書きを読んだ。
通りに張り出した席は既にいっぱいで、常連客らしき人々がのんびりとくつろいでいる。仕事前の一服というわけらしい。バターの溶ける香りや、肉が焼ける匂いが鼻をくすぐる。ぐう、と腹が鳴った音は気づかれただろうか。
「早く行こっか」
「あ、ああ」
ナワーブの悪戯げな瞳が、確かに空腹を聞き届けたと物語っていた。全く恥ずかしくて仕方がない。歩く速さを上げて、二人してズンズンと店に向かう。本当は通りの様子などを描写した方が良いのだろう。が、空腹を抱えた成人男性二人にそれは酷というものだった。
「こんにちは!」
「ええと……Bom dia!(こんにちは)」
開いた店の扉から入り込み、真っ白なエプロンを腰に巻いた男性店員へと声を掛ける。夢うつつに飛行機の中で学んだ言葉をかければ、皿を片付けていた店員がにっこりと笑みを浮かべた。
「ピアソンさん、話せるの?」
「挨拶程度だがな」
キラキラとしたナワーブの瞳にうっと喉が締め付けられる。過剰な期待は不幸の元だ。格好つけたいとは言ったものの、押し寄せる明るさに及び腰になってしまう。店員の方と言えば慣れたもので、クセのある話ぶりでこちらに合わせてくれた。
「おはようございます。ジュリオの友達ですね?カメラは大丈夫。お客さんには伝えてありますから。私の名前はマヌエルです」
「よろしくお願いします、マヌエルさん」
店の中と言っても、ちょうど通りが見渡せる席へと案内される。陽光が適度に遮られて心地いい。客達は日常のままで、異物のようなクリーチャー達には目もくれない。
ここでは本当に自分たちはただの異邦人なのだ。何度目かの感嘆のため息が溢れる。カメラに小さな台をつけると、クリーチャーは角度を確かめてメニューに取り掛かった。
「朝はマルモラーダとぱぉん……って読むのかな、それとコーヒーがおすすめだって。ちょっと少なくないかな」
「確かに。朝は軽めにする文化なのかもな」
「そうでもありませんよ。パォンは種類が豊富。たっぷり食べたいなら、いくつかご用意しましょう。甘いものはお好きですか?ハムとチーズは?驚かせる準備はできていますよ」
二人の迷いを読み取ってか、水のボトルを持ったマヌエルがすかさずするりと入り込む。熱意があるものの、決して押し付けがましくないと感じられるのは、数多くの客を捌いてきたベテランならではなのだろう。
「じゃ、じゃあハムとチーズので」
「私には、甘いものをいくつかお願いします」
「かしこまりました」
マヌエルが去ると、ねえ、とナワーブが目で問いかける。演技は仕草や声だけではなく、目でも行うと言うが、彼の目は本当に表情豊かだった。
「甘いの、好きなんだ」
「……おかしいか?あ、いや、よく言われるんだ。別に言われて嫌なわけじゃない」
見る間に曇る瞳に、クリーチャーは慌てて取りなす言葉を紡いだ。こんな自分の言葉一つで一喜一憂するだなんて素直にもほどがある。よくぞ今まで無事で生きてこれたものだ。あるいは、ひねくれきった自分の方が異常なのか。演じた『クリーチャー・ピアソン』のことを思い出し、クリーチャーはゆっくりと幻想を切り裂いた。
「大人になってから自由に食べられるようになると、歯止めが効かないのかもな。食べても太らないから食べすぎて、よくフレディ……友人にもよく怒られるよ」
「わかるなあ。俺の場合は肉だけど。だったらこっちにいる間にたくさん食べなきゃね。甘いものが色々あるって、ガイドに書いてあるから」
「期待してるよ」
楽しんで、というエミリーのセリフが蘇る。本当にこんな調子で観客を楽しませることができるのだろうか。
「どうぞ。たっぷり味わってくださいね」
クリーチャーの逡巡をよそに、世界は進む。マヌエルと他のウェイターが次々と皿を並べ、バターにチーズにジャムにコーヒー、それから焼けたハムの匂いをテーブルに並べてゆく。オレンジを基調とした暖かな色合いは目からも楽しませてくれた。
「美味しそう!」
「これはすごいな……」
しんみりとした空気はどこへやら、マヌエルの説明の一つ一つに二人はじっと耳を澄ませた。大きくハート型に飾られたパォンは、ハムとチーズのホットサンド。チーズは特産のヤギのもので、ふわふわとした食感は病みつきだという。通りに敷き詰められた石畳のような見た目のパォンは矢張りこの地域特産のもので、割れば雲のように柔らかな生地がお目見えする。これにこんもりとした山を成すマルモラーダ――マルメロのジャムを添えれば抜群の美味しさだ。エッグタルトとして母国にもちらほら持ち込まれつつある、あの黄色いカスタードの幸せはもちろん、想像よりもぺしゃりとしたクロワッサンに、甘さをすっきりとさせてくれるコーヒーがついている。そして最後に並べられたのは、見るからに甘そうな黄色い衣を被ったパォンだ。
「Pão de Deusです。あなた方の言葉で言えば、『神様のパン』。すごいでしょう?顎が溶けるくらいに甘いパンですよ。お楽しみください」
刺激的な名前に目眩がしそうだ。恐る恐る顔を近づければ、カスタードの向こうに嗅ぎ慣れぬ悩ましく香ばしい匂いが漂う。なんの匂いだろう?クンクンと嗅いでいると、ホットサンドにかぶりついていたナワーブが一緒になって嗅ぎ始めた。
「ココナッツだね。確かここって、昔は南の方にも領土があったんだっけ。あっちじゃ見られない南の果物もたくさんあるって、昨日ジュリオさんが言ってたよ」
「言ってたか?全然覚えてないな」
身体の芯まで酔っていた。正体不明になった原因はいくつか考えられるが、無事に辿り着いて、相棒が悪くなさそうな人間だと知って安心しきったのだろう。どこまでカメラが回っていたのか定かではない。昨日の夜にせよ、今日の朝にせよ、自分は相当ダメなところばかり映っている気がして心が湿った。
ともかく今は食べよう。暖かいうちに食べた方が、食べ物にも作った人間にも誠実だ。何より美味しい美味しいと食べているナワーブに失礼である。
「君は美味しそうに食べるなあ」
「え?そ、そんなにガツガツしてた?」
「違う違う。褒めてるんだよ」
誰かに指摘されるまで、まともな食べ方ができなかった日々を思い出しながらクリーチャーは神様のパンを一口ちぎって齧った。甘い。舌が、歯が、脳みそが全て甘さに浸りきって戻ってこない。いくら甘い物好きと言えども、これほどまでのものにはお目にかかったことがなかった。
いつぞやエマが持ってきた、彼女の父親謹製のタフィーこそ世界一甘いものだと思っていたが、まだまだ自分の世界は狭かった。さすが神様だ。なんて甘いんだろう!
「美味しい?」
もう言葉にさえできない。ナワーブの問いかけにうんうんと何度も頷くと、なぜだか向こうまで嬉しそうな表情を浮かべて不思議だった。ひょっとすると、味が気になっていたのかもしれない。やにわにカメラが気になり、クリーチャーはコーヒーを引き寄せながら、ナワーブに半分に割いた神様を渡した。
「君も食べてみてくれ。なんて言ったら良いのか私にはわからないんだ」
「そんなに?じゃ、ピアソンさんはこっちを食べてよ」
ふわふわで塩っぱくて美味しかったよ、と言いながらナワーブがハート型の半分を皿に置いた。まるで心の半分を置くかのような強烈さに、クリーチャーは惑いそうになる自身を叱咤した。これではただのファンになってしまう。今の自分は共演者であり、何よりもナワーブを良い人間だと、将来性がある青年だとは思えどもファンになるには至っていない。
気を紛らわせるようにして口に運んだホットサンドは、外側こそ冷めてきたものの、中身は元のままで、溶岩のように熱いチーズが流れ出た。濃厚であるにも関わらず、まるでクリームのように軽い。先ほどまで居座っていた甘さが塩気に混じり合い、覆い隠されてゆく。そうとなればまた甘いものが食べたくなるというもので、思うままに甘い菓子パンたちに手を伸ばせば、お向かいのナワーブも同じことをしていた。
「甘いものと塩っぱいものを順番に食べるとさ、どこでやめたら良いのかわからなくなるんだよな」
「やっぱりそうだよね。俺、フィッシュ&チップスとアップルダンプリングを一緒に食べるのが好きなんだ」
「それも夜中に」
「そう!」
わかってるなあ、と笑うナワーブがどこまでも眩しい。なるほど、これが剥き出しの彼なのだとクリーチャーは羨ましく思った。束の間の日々が放送されたらば、きっと多くの人がナワーブの良さを再確認することだろう。
「あなたたち、ロミオとジュリエットを見つけたのね」
「ロミオとジュリエット?」
自分は、と沈み込むよりも先に外野からの声が滑り込んでクリーチャーの意識は霧散した。見れば、隣のテーブルで新聞を読んでいたはずの女性がまなじりに皺を浮かべて微笑んでいる。
「ええ。この国ではね、甘くて塩っぱくて、交互に食べるとやめられない組み合わせのことをそう呼ぶの。恋に落ちているみたいに二つの料理のことしか考えられなくなるものね」
流れ出す言葉は、この国の人間にしては訛りが少なく上品だ。ロマンチックな説明にぴったりで、ここが舞台であるかのように際立っている。
「ロミオとジュリエットか……なんだか不思議だな」
「シェイクスピアが生まれた国じゃないもんね」
「違う違う。その、なんだ。恋をしたことがない人間が、恋の楽しみだけわかるだなん面白いと思って」
舞台の上でも、クリーチャーが恋をすることはほぼないと言っていい。せいぜいあっても片恋もので、現実と同じくらいに甘くはないのだ。にも関わらず、人生の円熟期に差し掛かったであろう女性の言葉はしっくりとくる。やめられなくて、背徳的な味わい。コーヒーが恋人たちを胃袋に送り込み、市場に行く前だというのに薄い腹をぽっこりと膨らませた。
恋人たちの振る舞いは、時として他人のお腹には受付切れないほどの重量を持つ。明日は軽めにしようと誓いつつ、クリーチャーは守れる自信がなかった。
***
なんて純粋なのだろう。ジュリオに市場を案内されながら、ナワーブは胸が弾むような心地でいた。この国を象徴するように、一面に広がる物珍しい果物たちでさえ、こうも訴えかけてはこない。視線の先では、初めて南国の果物を試食させてもらったクリーチャーが、甘酸っぱさに顔を顰めていた。
当初、空港で出会った際のクリーチャーは硬く閉じた牡蠣のようだった。御しやすくもやや難があるかもしれない、という予感を抱いたことはうっすら覚えている。
そんな彼が天井を見上げ、天使のウインクを受け取ったことは意外な喜びと言って良い。何かいいことが起こる前触れのように胸がざわめく。昨晩のクリーチャーはまだまだ他人行儀で、当たり障りのない話しかしなかったが、酔い潰れる姿は眺めていて面白かった。
クリーチャーの行動の一つ一つが自分を自由にしてゆく。寝ぼけた顔、恥ずかしそうな顔、甘いものが心底好きだとわかる夢中になった顔。熱いチーズよりも、クリーチャーがどこか寂しそうに恋について語った顔の方がナワーブの心臓に熱いものを流し込んだ。開いた牡蠣は純朴で飾り気がなく、肉も薄いだろうと期待していなかった身の中に真珠を見つけたような心地にさせる。
「サベダー君、サベダー君」
「はいはい」
あれこれ試食してはしゃぐクリーチャーの声は、こんなにも騒がしい市場の中であってもよく通る。誘われるままに近づけば、小さなスプーンを4つばかりお盆に載せて差し出してきた。
「パッションフルーツに見えるけど、合ってる?」
「正解。よく知ってるな。けれどここからがお楽しみ。絶対驚くぞ」
「間違いありません」
クリーチャーが自慢げに胸を張る動きに合わせて、ジュリオが相槌を打ちながらカメラを回す。そんなに間近で映さないで欲しいと思い、ナワーブは脈絡のなさに首を傾げた。
狐につままれたような気持ちだが、仕事が優先だ。スプーンの上に載った、黄色いゼリーのように震える果実を見比べるも、傍目には差が見られない。クリーチャーが渡してくれるに合わせてまずは一杯。
「甘い……けど、なんだろう?何か違うな」
するりと飲み込んだ果実はどこまでも甘酸っぱく、花の香りが口の中に広がってゆく。だが一方で、以前に食べ覚えた味わいとは違ったものが舌を刺激していた。
「なんだろうなあ。ほら、こっちも」
心底嬉しそうな表情で、次々とスプーンが差し伸べられていく。一口、二口、三口、四口。経験値は順繰りに積み上げられ、山の頂上に辿り着いたナワーブはようやく答えを導き出した。
「これってもしかして……全部違う種類なんだ」
「「大正解!」」
ジュリオとクリーチャーが揃って歓声をあげる。俄には信じられない話だが、パッと見ただけではまるで同じのこのパッションフルーツたち、目を見張るほどに種類が多いらしい。実際に並んだ果物を示されて、今食べたものはこれで、と覚えたばかりの知識をクリーチャーが披露する。ピーチにバナナ、レモンになんとトマトまで。ナワーブは感嘆のため息を漏らしながら、流れる説明に聞き入った。
きっとクリーチャーは物覚えが良いのだろう。一度聞き、説明された内容をすぐさま自分のことのように語ることができるなどなかなかお目にかかれない。自分も含めて、俳優仲間には脚本を覚えるに当たって相当の読み込みを必要とする人間が多かったものだから、ナワーブは素直に相手を尊敬した。
クリーチャーの声がよく通るのもまた、培ってきた技術と経験の賜物なのだ。真っ直ぐに自分に向かって飛んでくる声。舞台に朗々と響き渡る彼の声を想って、ナワーブは自分が劇場に足を向けたことさえ無いことを初めて残念に感じた。映像作品の刺激に夢中で、もったりとした空気で進む舞台劇がどうにも慣れない、と言い訳した自分は面倒くさがりなだけである。
つまみ食い天国はまだまだ続き、昨日も腹にたんまり招待したバカリャウにたっぷりのパプリカパウダー、ピリピリ(唐辛子の一種らしい、本当に辛い)、缶詰たちにチーズにワインと、どこまで行っても尽きることがない。そこここでは、ナワーブたちと同じように食べ歩きながら店主と会話をする人々が見受けられた。
「この国の人は、本当に食べることが好きなんだね。こういう風に気ままに食べられる場所が、あっちにもあると良いんだけど」
「蚤の市の時くらいか?確かに、気軽につまめる店を梯子するのはちょっと難しいな」
ついつい馴染みのパブで時間を過ごしてしまうのだ、とクリーチャーは懐かしむような目で話す。来て早々にホームシックかと少し呆れつつも、そんな風に惜しく思う場所が知りたくて、ナワーブは口を開いた。
「帰ったら、ピアソンさんのお気に入りのお店に連れてってよ。どんなところか見てみたい」
「君みたいな洒落た奴が来るところじゃないぞ。……もし、帰ってもその気があれば、な」
たじろいだ様子の相手に、ナワーブはやりすぎたと心の中で舌打ちした。馴れ馴れしくしてどうする。
クリーチャーはただの共演者で、楽しい旅を共にする相手で、それだけの関係である。確かに自分は彼に興味を抱いており、尚且つ同じことを感じられるという喜びもあるが、向こうもそうとは限らないのだ。あなたって単純よね、といつぞやマーサが話していたことを思い出す。
「誰でもあなたみたいに、真っ直ぐな気持ちで生きているわけじゃないのよ」
「俺が何も考えてないような言い方はひどくないか?」
「もちろん、あなたにだって悩みはあるでしょうよ。それくらいはわかるわ。でもそうじゃなくて――あなたは出来たら、そのままでいてね」
そのままでいられる世界は、きっと優しいから。寂しい目をして言ったマーサには、チグハグな生き方で苦しむような出来事があったのかもしれない。話はウィリアムが来たことによって打ち切られ、以来謎のままだ。
人間はとかくややこしい。ロミオとジュリエットのように、単純明快で病みつきになる日々の方が気楽で結構だ。クリーチャーが、また新しい美味しいものを見つけてこちらに運んでくれる。
甘いものを食べたら、塩っぱいものを。魔法の呪文のように呟いて、ナワーブは大きく口を開けた。
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