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海辺の二人/#6.始まりの終わり


 思い出は、時に物という形で積み上がってゆく。食卓一面にこの国をつまみ食いした痕跡を並べて、クリーチャーはナワーブと土産の最終確認に入っていた。
 日常をつぎはぎした非日常の撮影も、残すところあと三日である。観る・買う・食べるに思い残しはないようにせねばならない。何しろ撮影の目的は、異国の魅力を余すところなく視聴者に伝えることなのだ。
 もう一つの目的は達成できたか自信がないものの、少なくともナワーブの魅力は全面に出たはずだと断言できる。自分がどうであるか、クリーチャーは未だに答えが出ない。
 ナワーブを見やると、『本来のクリーチャー・ピアソン』を肯定してくれた青年は、持ち帰る思い出たちの整理に頭を悩ませているらしかった。端から種類ごとにまとめるだとか、そもそも一覧表を作って照合するだとか、やりようはいくらでもありそうだというのに、思いのまま散りばめたのは性格が反映されているのだろう。きっと彼にとっては、全てが優劣なしに等しく、大事なものなのだ。
 自分もその一つだろうか。烏滸がましいとはわかりながらも、ナワーブから寄せられる信頼についつい舞い上がってしまう。この撮影が放送された暁には、きっと恥ずかしくてたまらなくなるに違いない。正気に戻るな、とクリーチャーは自分に念を押した。ナワーブを信じると返事をしたあの時から、クリーチャーは撮影が終わるまでは彼の優しさに溺れることを決めたのである。
 今この時は、束の間の夢だ。そうだとすれば、ここにいるクリーチャー・ピアソンはナワーブが言う理想的な人間であり続けられる。
『本当はこんなに優しくて、甘いものが大好きなか……面白い人なのにね』
夜中に訪ねてきたかと思えば囁かれたセリフに、どんな甘いものよりも甘いとクリーチャーは痺れた。ナワーブの出演作に恋愛ものはなかったが、間違いなく当たり役となるに違いない。脚本もなしに素面で酔わせてくれた青年を、どうして袖にできよう?彼は醜悪な『クリーチャー・ピアソン』という虚像を乗り越えてきたのだ。
 クリーチャーは甘いものが好きだ。幼い頃から手に入らず、手に入るかと思いきや、遠ざかってしまう甘いものは、この身を滅ぼすほどに欲しい。
 失う可能性が高く、身を切られるような辛さが待ち受けるとしても、悲劇作品にでも出たのだと思い込めばどうにかなる。これは幻の日々だ。
 確かに、ナワーブはクリーチャーという生身の人間を見た上で触れてくれているのだろう。彼にかかれば、笑顔も優しい言葉も本物の色合いを帯びる。そして帰国をした暁、現実に戻った日にはクリーチャー以外にも等しく注がれる様は想像に難くない。
 ナワーブは、また欲しいと強請って手に入るような飴玉の類とは異なる。もっと貴重で、多くの人が欲しがり群がるもので、そうあるべきなのだ。クリーチャーに異論はなかった。
「買い忘れはありそうか?あるなら今日のうちに買いに行こう」
「ない……んじゃないかな。石鹸とワインでしょ、あと缶詰、ええと」
「バカリャウと、パン袋もあるな。これは?」
「あ!」
見覚えのない紙袋に手を伸ばすと、にわかにナワーブが慌て始める。些細なものであるにしては真剣な様子に、クリーチャーは伸ばした手を止めた。
 暴きたいような、暴いてしまえば悲しい気持ちになるような胸騒ぎが止まらない。たかだか土産で、誰に贈るも何を送るもナワーブの自由だ。たまたま、クリーチャーにはそうして秘密にしておきたい相手も土産もないだけの話である。ひょっとすると自分は、そうした相手がいるナワーブが羨ましいのかもしれない。
 軽く詫びると、机の隅に並べた自分の土産を検分する。
 フレディにはマデイラにポートを始め、ジュリオお勧めの各種ワインの詰め合わせ。エミリーには待望のバカリャウと、酒豪の彼女に寄り添うイワシの缶詰。缶詰は味もパッケージデザインも豊富で、どれにするのかはナワーブと一緒に頭を悩ませたものだ。散々悩んだご褒美に、店主がくれた缶詰柄の買い物用の布袋も渡せば、きっと喜んでくれるだろう。エマには、名物の幾何学模様のタイルを思わせる包み紙の石鹸たちで、思い出深いパッションフルーツの香りがする。愛すべきジョーカーには、大柄な彼でも十分着られる、船乗りが愛した毛糸のセーターだ。母国でも買えそうではあるが、編み方や材質が異なる――クリーチャーに今ひとつはわからなかったが――らしい。
 もちろん、クリーチャーは自分自身にも土産を手に入れていた。むしろこちらの方が重要だろう。
 まずは、ハンカチとパン袋。伝統的な刺繍が施された、素朴ながらも贅沢な逸品である。絵柄はナワーブが選んでくれたもので、彼の分はクリーチャーが選んだ。次に、ナワーブとお揃いで買った陶器のマグカップ。一緒に並んで絵付けをした皿もある。最後はマルモラーダと、市場で出会った南国の味わいが詰まったジャムの瓶たちだ。
 どれを手に取っても、どんなやりとりをしながら持ち帰ったのかをありありと思い出せる。自分の記憶力には後悔せざるを得ない。あの寂しい自宅に帰った時、懐かしさで窒息する自分の姿を想像し、クリーチャーは嘆息した。
「また何か悩んでるの、ピアソンさん。買い忘れでも見つけた?」
「わ、」
すぐそばで響いた声に驚けば、ほんの少しで触れ合えそうなほどに近いナワーブの顔にさらに驚かされた。一ヶ月近く共に過ごしてわかったのだが、この青年は気を許した相手との距離感がひどく近い。
 顔が良いことは救いか災か、クリーチャーにとっては気恥ずかしさを高めるばかりだった。慣れてきたつもりであっても、ビクビクと心臓が怯えてしまう。
「か、顔が近い」
「あんた、本当に俺の顔が好きだね」
違う、と否定しかけてクリーチャーはやめた。ナワーブの顔を眩しく感じるのだ、と説明は再三している。敢えて言い換える意図は不明だが、相手が良いように解釈させても構わないだろう。訂正するだけ時間の無駄だ。帰国すれば、太陽を間近に見ることは金輪際叶わない。
「改めて見ると、良い皿だなって思ったんだよ。役者を引退したら、焼き物で食べていけるかもしれないぞ」
「ピアソンさん、手先が器用だもんね」
さりげなくカメラを意識させるナワーブに、クリーチャーも阿吽の呼吸で応える。どうやらこの辺りから録画しようという魂胆らしい。冒頭部分は削ってくれると信じて、皿が映るように掲げる。
「コインと王冠と……これは宝物の鍵かな。もしかして、ピアソンさんの欲しいものだったりする?」
「それと、ナタだ。私は欲張りなんでね」
ナタことパステル・デ・ナタは、名物のエッグタルトである。初めて食べた時からそのふわふわとした食感と、ふんだんに使われたカスタードが齎す満足感にクリーチャーは夢中だった。今では二日に一度は口にしないと寂しくなってしまう。
「あれは持って帰れないもんね。そうだ!思いついたんだけどさ、ピアソンさんなら作れるんじゃない?」
「どうだろうな。もどきくらいは作れそうだが」
生菓子は持ち帰ることができても飛行機の中までしか保たないだろう。ならば作れば良いとはいかにも食べる専門のナワーブらしく、クリーチャーはクックと笑って応えた。
「作ったら、俺にも味見させてね。ピアソンさん以外は俺しか正解がわからないでしょ」
「それが目当てか」
ありえもしない未来が描かれる。クリーチャーの部屋にナワーブが当たり前のような顔をして現れ、菓子をねだるのだ。それこそカメラはどこにもない。
「その時は君の皿を持ってくるといい」
「いいの?」
「私は皿が見たいだけさ。君はついでだ」
流れるようにしてナワーブの皿へと導けば、すぐさま手元に運ばれる。空と海の青を写し込んだ表面に、白鷹が勇ましく舞い上がる絵柄で、想像はつけども下絵ができないナワーブを手伝ったのは良い思い出だ。指導していた陶工からは、いささか筆致が大胆すぎるものの、力強さは申し分ないという丁寧な感想を寄せられた。
 絵の上手い下手はさておいて、この皿を見れば作り手の気持ちの良さがよくわかる。良い皿とは、何も見目の良さ、技術力の高さだけから判断するものではないだろう。見る人間に訴えかける力もまた重要なのだと思い至って、クリーチャーはつるりとした皿の表面を指でなぞった。この記憶を宝箱にしまって大事に取っておきたい。
 壁掛け時計を見上げれば、ジュリオと約束した時間がもうすぐそこまでに迫っていた。今日は旅の集大成とも言える観光名所が待っている。名残惜しくも皿を返し、クリーチャーはカメラに向かって手を振った。
「そろそろ片付けよう。出かける時間だ」


***


 思い出は、どうして記憶に刻んだ端から過去へとしまい込まれてしまうのだろう。いくつ作っても物足りない飢餓感に苛まれ、ナワーブは街を見回した。あと数日で別れを告げる街は、人間がどう動こうが気にせず目まぐるしく時を進めている。
 ピンクや黄色に塗られた建物群を見れば、クリーチャーと並んで覗いた菓子店や先日出かけた石鹸店、実は近隣諸国随一と謳われた靴の店を思い出す。赤茶色の屋根は、二人で並んだ高台からの景色に重なり、石畳はうっかり躓いたクリーチャーを助け起こした場所だ。笛吹男よろしく先導するジュリオの後に続いて路面電車に乗り込む。最初は地名さえ読み切れず、どこで降りるのかまごついたことが嘘のように順調だ。
 地名を覚えるのはクリーチャーが得意で、地図を読むのは自分の方が得手だった。何度市場を往復して買い物をしただろう。角を曲がったところにある食料品店はすでに顔馴染みの領域に達していて、気の良い異邦人二人に何かとおまけをつけてくれる。その向こうは、軽く酔った自分がブレイクダンスを踊ってクリーチャーを驚かせた酒場だ。ファドのギター弾きは、昼間であっても飲んでいて、こちらを見つけるたびに踊らないかと誘いかけてくる。
 誰も、俳優であるクリーチャーやナワーブを求めていない。最初にこの地に踏み入れた時に感じた解放感はいつしか当たり前となり、日を追うごとに体に染み込んでいた。帰国が差し迫った今となれば、失うことへの寂しさと焦燥感で落ち着かない。 
 手すりに掴まるクリーチャーの横顔を、間近に眺める日は二度とないのだろうか。束の間に与えられた、日常の皮を被った非日常がただただ惜しい。
 まだ、時間が足りない。クリーチャーをもっと知りたい。もっと近づいて、同じようにもっと自分を知って欲しい。一度崩壊しかけた関係は、クリーチャーからの信頼という得難い宝により一層強固になった。逡巡していたのが嘘のように欲望は膨れ上がり、ナワーブを狂わせていく。
「好きだなあ」
「え?」
うっかり溢れた心は、間の悪いことに拾われてしまったらしい。努めて冷静に。大したことは言っていないふりをして、ナワーブは些か大袈裟に街並みを手振りで示した。次が降車駅だ。
「この街が好きだなあって、思ったんだよ。綺麗で、美味しくて、明るくてさ。もうちょっといたいくらい」
あんたと。言葉を飲み込んで淀みなく先を続ける。
「楽しいことがいっぱいあったよね。ほら、あそこを走っている犬、ピアソンさんが捕まえてあげた犬じゃないかな」
「あの逃げた犬か?飼い主の人がくれた花は綺麗だったな。ドライフラワーにすれば良かった」
もらった花のように、この想いも思い出と一緒にいつまでも色褪せずに取っておけたらばどんなに良いだろう。いつか日常に押し流されてしまうかもしれない今日が、明日が恐ろしい。
 駅に降り立ち、中心部から周囲を見回す。旧市街と呼ばれる、一帯全てが世界遺産に指定された場所は一段と御伽噺めいた場所だった。薄い切り紙細工のように穴が空いた陶器のタイルがあちらこちらの建物を飾り、青や赤のモザイクタイルが目を楽しませる。これまで目にした場所よりも豪奢で細かな装飾は、街に降り積もった豊かさに他ならない。道ゆく人々までもが古の時代からそのままに暮らしているようで、ナワーブは本当に生きているのかと瞳を瞬かせた。
 クリーチャーも同じようにして、ゆっくりと呼吸をしながらあたりを眺めている。まるで風景に溶け込むような仕草に、置いていかれるのではないかと心配だ、と言ったらば笑われるだろうか。結局また、彼ばかりを見ている。何もここは舞台の上ではなく、スポットライトもなければ、世界はどこまでも広い。だからこそ、彼なのだ。
「ジュリオさん、あそこは劇場ですか?何か特別な建物に見えるが」
ほら、とクリーチャーが示す先へは魔法のように頭が動く。誘われるままに見れば、草花を模した彫刻とタイルとが組み合わせられた繊細な建物がそびえていた。大きくもなく、優美だが特別に目立つもののない建物だが、見るべきは扉の前にある。
 真っ赤なマントを翻し、丸い帽子に丸いサングラス、極め付けはくるりと曲がった長い口髭を備えた男性が二人も並んで立っているのだ。様子からして、守衛の類だろうが、あんな芝居がかった人間を置くなどなかなかお目にかかれない。確かに劇場向きだ、とナワーブもまじまじと揃いの二人を見つめた。さながら不思議の国の双子のように浮世離れしている。
 ジュリオは嬉しそうに(と言っても彼の場合は殆どの時において嬉しそうなのだが)片目を瞑って、大声を上げた。
「良い勘ですよ、ピアソンさん。Olá, firmeza?(やあ、元気かい?)」
「Firmeza, e ai?(元気だよ。君は?)ジュリオ、今日は君の友人を連れてきてくれたんだね。Tudo bem?(お元気ですか?)」
「Graças a Deus.(おかげさまで)」
「Tudo bem.(元気です)」
些細な挨拶も、もはやお手のものである。淀みなく返した二人に、ジュリオの友人らしき赤マントの一人はうんうんと頷いてゆっくりと扉を開いた。 「いらっしゃいませ。どうか最後まで楽しんでください」
「え、結局ここって……うわあ」
「おお」
あっさりと入って良いものか迷いつつ入れば、言葉はとうとう失われた。究極と言える何かに出会った時、人は言葉にすることさえもなく音を発するだけになると言う。単純に自分に引き出しが少ないだけだとナワーブは認識していたが、まるで違う。圧倒するものを前にして、言葉とは奪われるものなのだ。
 本、本、本、本、本、そしてそれらを抱き、飾り、運んでゆく装飾たち。まず目に入るのはぎっしりと天井まで詰まった本棚と本だ。背表紙だけでも絵ができるのではないかと思うほどに種類が多く、棚にかかった梯子は天まで届くかのごとくである。飴色に輝く、手入れの行き届いた本棚は中央で螺旋折になって階段へとすり替わる。ナワーブが頭に思い浮かぶ、劇場の入り口とはこうであってほしいという演出効果が満ち満ちていた。足元を滑るのは線路を走るトロッコで、どれも本が詰まっている。
「ここが、私が知る限り世界で一番美しい本屋です。同じ意見の人も多いようですね」
自信溢れるジュリオのセリフには、二人とも頷くのが精一杯だった。カメラを回してくれていると言うのに、形にできるものがない。黙ってクリーチャーが歩き出し、あの舞台に登るような階段に足をかける。手すりに彫られた蔦がするすると巻き取って行くかのようだ。いなくなってしまう。子供のような胸騒ぎが届いたのか、クリーチャーは階段の途中で足を止めると上を指差した。
「サベダー君、見てくれ」
もう遠くに行ってしまった人のような顔で呼ばれた名を、ナワーブはじっと噛み締めた。彼を連れて行く神は、どんな顔をしているだろう。
 陽の光が透ける天井は、ステンドグラスによって楽園が表されていた。花が数珠繋ぎになってぐるりを囲み、中央ではこの本屋の神に当たるだろう人物が上半身裸で金槌をふるっている。静かな場所で、直向きに仕事をする人物の横に大きく書かれた言葉は、おそらくは重要なメッセージなのだろう。不幸にして学がなく、そもそも何語であるかもわからないが、最良の環境で黙々と仕事に打ち込めるとは姿は羨ましく感じられた。
 そんな生真面目そうな神の眼に埃がついているのを見とめ、ナワーブはふと口元を緩めた。
「ピアソンさん。あの人、ウインクしてるみたいだね」
「やっぱり、君にもそう見えるか?あ、」
クリーチャーの弾けた声に、二人が出会った最初の日が重なってナワーブは涙が出そうになった。天井に描かれた天使に歓迎された時から、まだ一ヶ月も経たないにも関わらず、なんと濃密な日々だったろう。相手の顔にも同じようにして思い出が過り、ナワーブは埃がついてるんだね、と誤魔化すように呟いた。
「不思議だな。誰かと同じ気持ちでいることが嬉しいだなんて、君に会うまでは考えもしなかった」
「俺も」
同じ気持ちでいたいと思う願いは、今が人生の中で一番強い。きっとクリーチャーの性格からして信じてもらえないだろうが、構わずにナワーブは相手の言葉を促した。
「君と一緒に旅ができて、私は幸せだな」
「俺も。さっきと同じことしか言ってないから、馬鹿みたいに聞こえるかもしれないけれど、本当にそう思ってる。一緒に歩いて、色んな人に会ったり、色んなものを食べたり、観たり。仕事でいいのかな?って」
真剣に返しながら、ナワーブはクリーチャーがどこまでカメラを意識しているのだろうと不安を抱いた。もし、これが天才的な演出であったらば、自分の心はボロボロになってしまう。
「あー、すみません。ちょっとよろしいでしょうか」
意外なことに、待ったをかけたのは神でもジュリオでもなく、二階からこちらを見下ろす新たな赤マントだった。こちらは守衛と異なり顎髭がくるんと渦を巻いている。帽子の鍔を軽く持ち上げて挨拶すると、赤マントは二人に上がるようにと急かした。確かに、いくら客がまばらとは言え、中央の階段を占拠するのはよろしくない。ジュリオも声をかけてくれれば良かったのに、と責任転嫁しつつもナワーブは慌てて駆け上がった。
「すみません、急かすつもりはなかったのですが。皆さん楽しみにしていらっしゃるので」
「なんのお話でしょう?」
首を捻るクリーチャーに、赤マントはゆるゆるとマントの下から一冊の本を取り出した。茶色い革表紙に、金色の文字が踊るように綴られている。自分の汚い字もなかなかのものだと思うが、達筆すぎる字というものも読みにくいと痛烈に感じさせる逸品だった。
「『ロミオとジュリエット』ですね。綺麗な装丁だ」
本が渡され、クリーチャーは愛おしむように表紙を撫でた。ロミオとジュリエット。チーズとジャムとのやめられない組み合わせを思い出し、ナワーブは唾が湧いた。この国の人は、海を渡った向こうの物語が本当に好きなのだろう。
「この店では定期的に朗読会を行っているのです。つまり、今日は――あなたがいらっしゃるのをお待ちしておりました、クリーチャー・ピアソンさん」
「わ、私を?」
まさかと驚くクリーチャーに、赤マントは当たり前というように階段向こうの椅子を示した。幾何学模様の刺繍が目立つ椅子の一脚に、見覚えのある女性が優雅に腰掛けている。手にはクリーチャーと同じ、革表紙の本が携えられていた。
「お久しぶりね、クリーチャー。この日を楽しみにしていたわ」
「エミリー!」
嬉しさと、照れ臭さが混じった呼びかけに記憶の引き出しが開いた。そうだ、この女性は何度もスクリーンで見たことがある。エミリー・ダイアー、紛れもなくベテランの領域に差し掛かった女優だ。
 『第五人格』では、クリーチャーと共演もしていたため、記憶に新しい。あの作品は長期間に渡って撮影したものなので、二人は親しくなったのだろう。互いが互いを見る目つきから、暖かさが伝わる。ナワーブに優雅に会釈して、エミリーは早く座れと空いた椅子にクリーチャーを招いた。ぐるりは観客でいっぱいである。この茶番ですらも彼らには楽しい余興らしい。だが、ナワーブにはどうしようもない寂寥感をもたらすばかりだった。
「あなたったら、ちっとも連絡をよこさないんだもの。心配で見に来たのよ、嬉しそうになさい」
「私はもう十分大人だ」
「そして、私の友人でもある。でしょう?」
ぐうという呻き声が、ただただ嬉しさを伝えていた。既に打ち合わせ済みだったらしいジュリオが声を張り上げる。
「ピアソンさんとダイアーさんには、これより『ロミオとジュリエット』の中からお好きな一幕を演じていただきます。ピアソンさんは以前に舞台で演じられたことがあるんですね、そうでしょう?」
この国の言葉と、向こうの国の言葉と両方を続けて話せるのは、ガイドの本領発揮だ。一観客として手すりにもたれかかると、ナワーブは黙って耳を傾けた。
「ああ。もう何年も前になるが……セリフは覚えているよ。けど、知らなかったな、エミリー。まさか君も演じたことがあるとは」
「名誉なことにね。あなたの好きなシーンはどこかしら」
「二幕だな」
「それなら……」
二人が顔を寄せ合い、ひそひそと打ち合わせを始める。観客を待たせている手前、速やかに行いたいのだろうが、ナワーブは胸がざわついて仕方がなかった。これから先が見たい。これから先は、知りたくない。
 クリーチャーに対して、あらゆる感情が矢印を向ける。わかっているんだ、とナワーブは自分のスターを見つめた。
この気持ちをなんと呼ぶのか、自分はもう知っている。


***


『おお、ロミオ、ロミオ!どうしてあなたはロミオなの?』
どうしてこうなったのか。淀みなく物語を紡ぎながら、クリーチャーは錯綜する思考をなんとかまとめていた。
 まず、出かけた先で突発企画(というわけでもなさそうだ、エミリーまでいるのだから)が待ち伏せていたのは受け入れられる。エミリーが会いに来たのは、正直なところ嬉しかったのだし、このような歴史的価値のある舞台で朗読会を依頼されたのは名誉なことだった。どんな場所であれ舞台は舞台、他意のない素直な観客の目こそは、クリーチャーがずっと欲しかったものである。エミリーという『第五人格』の共演者を前にしても尚、ここにいるクリーチャーは『クリーチャー・ピアソン』ではなく――
『私の敵はあなたの名前。モンタギューとは何かしら?』
ジュリエットだった。本を渡され、朗読をせよと言われた時点ではもちろん自分はロミオだろうと、クリーチャーでなくとも誰もが思ったことだろう。自分が舞台で演じたのは、ロミオの親友であるマーキューシオだが、そば近くで見た演技は全て覚えている。もしかしたらいつか自分が、と夢見たこともあった。
 それがエミリーの手にかかれば、悪夢のような逆転劇に変わる。よりにもよって男女の役を取り替えようと申し出たのだ。受け入れられないだろうと、彼女を正気に還らせるべく冷静に断ったものの、肝の座った女優には通じないらしい。寧ろツンと澄まして挑んできたのである。
「だって、この国の人にとっては私たちが読むのは外国の言葉でしょう?言葉がわからないなら、いっそ面白くて新鮮な演出の方が興味も持てると思うの。流石に、役の名前くらいはわかるでしょうし。どう、クリーチャー。それとも怖気付いた?」
「わ、私を馬鹿にしているのか!それくらいできるさ」
「良い返事ね。それじゃ、やりましょう」
嵌められた。気づいた時にはもう遅く、エミリーがジュリオに趣向を伝える。悔しくも読み通りに観客は思わぬ演出に沸き、もはや引き返すことは許されなかった。
 声を甲高く張ったところで作品を台無しにするだけだと考え、クリーチャーは敢えて地声で話している。幸にして、この第二幕の山場に観客もついてきているようだった。
 ウィリアム・シェイクスピア作『ロミオとジュリエット』は、演劇にオペラにミュージカルにと様々に形を変え、応用されて未だにあまねく人々に届けられる恋愛物語である。敵対する家同士(人殺しさえも辞さないのだ)の息子・ロミオと娘・ジュリエットが期せずして出会い、そして情熱のままに悲劇の坂を転げ落ちる、と聞くといささか時代錯誤に響くかもしれない。実際、演じるクリーチャーとしても飲み込みきれない場面は多々存在する。
 だが、引っ掛かりがあれども何故か人々に受け入れられるのだから、魅力があるには違いなかった。例え読み上げる男女の役があべこべであっても、である。
 第二幕はロミオとジュリエットが出会い、恋に落ちてからジュリエットの家の庭先で再会し、愛を確かめ合うという場面で、話そのものを知らずとも、このバルコニー越しに会話をする二人を知っている人間は多い。ナワーブはこの一幕をどう見るだろうか。そもそも話の筋もわからないかもしれない、と観客に目を走らせると、思いもよらぬ熱にぶつかってクリーチャーは息を呑んだ。
『手でもなし、足でもなし、腕でもない。顔でもなければ、人の体のどこでもない。ああ、だからその名を捨てて』
心臓がバクバクと高鳴るのを聴きながら、ジュリエットも同じような気持ちでロミオを見たのだろうかと思いを巡らせる。こんな情熱的なセリフを捧げるには、それほどの相手でなければ釣り合うまい。
『名前になんの意味があると言うの?何と呼んでもバラはバラ、その芳しさに変わりはないわ』
ナワーブは、ここにいる生身の『クリーチャー・ピアソン』にこそ惹かれたのだという。どんな役をしようとも、どう呼ばれようともただ真っ直ぐに自分を見ていた。
 旅に出るまでに、散々揺らいだ心が落ち着き、向けられた熱に応えるようにして前を向く。そうだ、自分はこんな風に観られたかったのだ。クリーチャー・ピアソン!
『だから、ロミオもロミオと呼ばなくても、その素晴らしさに変わりはないの。ロミオ、その名前を捨てて』
そして、彼の声を聞いてみたいとも思う。こんな風に甘く、真っ直ぐで、ただ自分にだけ捧げられるような言葉を受け取りたい。そのためにならば、どんな対価でも支払うだろう。観客に向かって手を差し伸ばし、腹の底から声を出した。
『そしてあなたのどの部分の名前でもない、その名前の代わりに私の全てを受け取って!』
心を込めたクリーチャーのセリフに、エミリーが同じく熱を持って返す。ならば彼は――欲張りな願いに心の中で苦笑してナワーブを見つめれば、陶然とした様子で観客たちと共に拍手をしていた。第二幕は終わり、ひとときの魔法も終わりである。
「ありがとう、エミリー。聞いてくださり、ありがとうございました。Obrigado!(ありがとう)」
「ありがとう、クリーチャー。久々に共演できて楽しかったわ。Obrigada!(ありがとう)」
立ち上がってエミリーと抱き合い、クリーチャーは割れんばかりの拍手の中で、ようやく『クリーチャー・ピアソン』の幕が閉じたのを認めた。あの怪人はもう死んだのだ。何と満たされた心地か!肩の力を抜いた矢先、ガシリと後ろから抱きつかれ、クリーチャーは思わずむせた。
「ぐぇっ」
「ピアソンさん!すごかった、すごかったよ!」
「サベダー君、苦しい」
もちろん原因はナワーブである。苦情を申し立てたものの、いっかな聞き入れられることはなく、抱きしめてくる力は強まるばかりだ。エミリーがあら情熱的、などと呟きながら離れてゆくが、嗜めてくれないのかと恨めしく思う。さすがはエミリー、面倒ごとを華麗に避けてゆく処世術は健在だった。仕方がなしにナワーブの腕を掴んでやれば、くぐもった声が肩口で響いた。
「俺、もっとピアソンさんの演技が見たい。あんたが舞台に立って、俺が観客席で……ううん、あんたと一緒に舞台に出たい。どんな役だって良い」
「おいおい、買い被っても何も出ないぞ」
「ピアソンさんはピアソンさんだよ」
何と呼ぼうとも。純粋な青年の声が、捻くれ者の胸を貫く。二重の意味を含むように聞こえたのは気のせいだろうか?掴んだ腕を愛情を込めて軽く叩くと、クリーチャーは旅の始まりを思い出した。
 あの頃、自分が思い描いていた未来絵図は、全く違う明るさを伴っていた。巷間に広まった『クリーチャー・ピアソン』を殺し、再びどんな仮面をも被ることができるようになるのだ。
 しかしどうだろう?今はどんな仮面を被ってもなお、生まれ変わった『クリーチャー・ピアソン』を自分の中からは拭い去れないように思う。道中辛くなるだろうとさえ予想した、痛みを伴う結実だ。
 出口はもうすぐそこだった。



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