覚めない夢で待っている
外へ
これは夢だ。夢じゃなかったら妄想だ。それも相当ひどい。ナワーブ・サベダーは朝方に冷えた下半身に絶望した。まだベッドに横たわったままだが、どういう状況に陥っているのか大変よく理解できている。それでも疑いたいほんのわずかな希望から、ナワーブは脚を少し動かした。べちょりとした感触が広がる。決定的だった。
「なんでだよ……」
夢精をした、そのこと自体は大いにありうることだ。荘園に来てからというものご無沙汰で(積極的にお近づきになりたい気分でもなければ、いざこざの気配があるためだった)、一人でする余裕もなくゲームに勤しんで文字通り丸太のように寝る日々が続くのだから、体が勝手に反応したのだろう。大いなる自然現象、全くもって宜しい。問題点は何をオカズにしてしまったかということだ。
「おーい。起きてるか?」
「っ」
コンコン、という控えめなノックの音にぎくりと体が固まる。夢の中と同じ声がドアの向こうから響く。クリーチャー・ピアソンだ。夢から出てきたわけでもあるまいし、とナワーブはもう一度寝たくて仕方がなかった。
「起きてるよ、ピアソンさん。ちょっと筋トレしてただけ。なんかあった?」
「いや、朝飯に君が降りてこないから……ワッフルを作ってみたんだ。良かったら早めにくると良い。エミリーに見張らせてるんだが、ウィリアムとイライが狙ってるんだ」
「わかった」
いつもよりも不愛想に答えてしまったことを重々承知していたが、それどころではない。もちろんワッフルは食べたい。だが今、このまま出ていけるほどナワーブの肝は太くない。あなたをオカズに夢精しましたなんて、慣れ親しんだ中年男に言うのは互いに酷だ。クリーチャーは律儀にドアを開かずに少し黙った後、結局開けることなく帰っていった。きっと自分に食べさせたくて、喜ばしい気持ちから朝を迎えてくれたろうに申し訳なくて仕方がない。ワッフルが食べたい。クリーチャーの作る手料理はどれもナワーブに口福を与えてくれる。
足音が遠ざかったのを見計らって起き上がり、惨状を確認する。量が多い。被害は下着、パジャマのズボン、シャツの一部、シーツの大惨事だ。ひとまず全部剥いで片付けるのだが、洗濯当番は誰だったろう?誤魔化すには工夫が必要だ。乱暴に体を拭って着替えて何事もなかった風を装いながらいつ洗濯するかを悶々と悩む。絶対にバレたくはない。自分は取り繕うのが下手だから、何かの拍子にオカズが知られてしまうだろう。待っているのは社会的な死だ。
部屋を出て、階段を降りて食堂へと向かう。だんだんと誘うように強くなる匂いはワッフルだろう。エミリーは辛抱強く待っていてくれるだろうか。
「おはよう。君の分が残っていて良かったな」
たどり着いた暖かな部屋でかけられた声に、ナワーブは心臓を摘まれたような心地になった。眦を下げたクリーチャーを正視できない。エプロンをつけてワッフルを盛ってくる姿は夢以上だ。いやそもそも昨日までなんとも思っていなかったはずなのに、どうして今日は翻弄されてやまないのだろう。震える手を止めてなんとか皿を受け取ると、ナワーブは小さくありがとうと返した。
「あと10分遅かったら僕が食べれたんですけどね」
「どのみち食べられなかったことくらい、君はわかってただろう、イライ。運命は動かしがたいものだよ」
イライ・クラークとフィオナ・ジルマンが好き勝手なことを言っているが関わらない方が吉だ。今の頭の中を覗かれたらーー手遅れだ、イライが口だけでうげ、と呻いている。
「朝からなんてものを見せるんだ……」
「勝手に見た罰だ」
「君がおおっぴらなだけです。少しは締まりをよくしてくれませんかね」
屁理屈だ。ワッフルの皿をテーブルに置いて座ると、クリーチャーがそっとカトラリーとマグカップを置いてくれる。既にミルクティーになっているのは全てナワーブの好みを把握した上での好意だ。母親のようなそれに甘え始めたのがいつかはもう思い出せないほど、クリーチャーの差し伸べる手は日常の一部になっている。それがとうとう、とナワーブは自分の煩悩を殺すべくワッフルにナイフを切り込ませた。ふわふわしながらも厚みのある手応え。湯気が立つような温かさはクリーチャーが温めなおしてくれたのだろう。
一口下の上に乗せて、仄かな甘味を楽しむ。続いてベーコンと目玉焼き、さりげなく添えられたレタスの葉へとナイフとフォークが蹂躙に勢いをつける。美味しい。そして目の前に座ってクリーチャーが嬉しそうにしていることで頬が熱くなる。イライとフィオナも見ているのだが、それらは完全に思考の外に追いやられていた。どう見たってクリーチャーは中年男性で、もじゃもじゃと渦を巻いた髭や、まくったシャツから覗く細い腕(どうしてこんなに細いのだろう)にもしっかり毛が生えている。多分エプロンに隠れて見えない、普段は少しちらつく胸元にだって生えているのだろうなと思ってナワーブは自分を叱咤すべくミルクティーを口に含んだ。自分は今いくつだ?十代の性に目覚めたばかりの少年ではない。そこそこ経験値だって積んでいる。
「そうがっつくなよ。ケチャップが飛んだぞ」
「ん」
す、と手が伸びてきたかと思うとギザギザの唇の端をなぞられ、ナワーブはビクビクとした。暴発しなかった自分をどうか褒めて欲しい。演繹の星に輝くのはまさしく自分だ。クリーチャーが指先に拭ったケチャップを舐めたのを見た時、ナワーブはあわあわと口を震わせるので精一杯だった。ちらと顔を出した舌の赤さ!今夜どころかこの後速やかに処理せざるを得ない。今までならば全く平然と喜んだだけで済んでいた自分はなんだったのだろう。
「なんだ、風邪でも引いてるのか?エミリーに診てもらうように頼んでおくから、ゆっくり食べててくれ。私はそろそろ洗濯に行かないとな。イライ君、行こうか」
「そうですね。夕方から雨が降りますから早いほうがいいと思います」
終わった。今日の洗濯当番はクリーチャーとイライなのだ!ベーコンの切れ端に染み込んだ塩気を深く深く噛み締めて、ナワーブは涙が出そうになった。圧倒的についていない。肩をポンと叩かれ、ナワーブは虚ろな目でフィオナを見上げた。運命に見放されても尚救いの手があるだろうか?
「ゴミ捨てならば今が良い頃合いだ。今日発注すればちょうど明後日には届く。シーツも予備があるぞ」
「……ありがとう」
「気にするな。むしろ、希望は持つと良い」
「希望?」
「明日は晴れるからね」
意味は不明だが、対策のしようがあるのは幸いだった。最後の一欠片を食べ終えると、ナワーブは皿を洗うべく厨房に向かう。一刻も早く部屋に戻りたかった。まだ下半身に違和感が残る。
夢を、見てしまったのである。あのクリーチャーの手が自分のものを摘んで、弄って、可愛いなあと言いながらあの口で慰めてくれたのだ。可愛くはないのでそこは憤慨したいのだが、あまりにも心地が良いので情けない吐息を漏らすのが精一杯だった。おまけに一丁前に焦らして出したいかい、なんて言い始めるのだからたまらない。私も出したいな、とクリーチャーはエプロンをまくってナワーブの上に座った。ぬちぬちと音をさせながら互いのものが触れ合って、初めて彼は下半身が裸だと知って興奮した。いや、よく考えたらばエプロンだけ身につけていた気がする。中年男性が裸にエプロンだけとは我ながら頭を抱える想像力だ。クリーチャーのエプロンが擦れて一層気持ちが良い。自然とかち合った目があんまりにも蕩けて美味しそうだったので、ナワーブは口づけをした。そして目覚めに至る。
最高に気持ちが良かった。部屋に戻って捨ててしまうゴミの山に向かって記憶を繰り返しながら二度だしたのは若さ故か。エプロンの下が全く見えなかったのは残念だった。見たことがないから想像できなかったというのはよくわかる。今はただもう全部ひん剥いて見てみたい。性衝動の塊のような自分に反吐がでるというのは嘘だった。理由づけはいくらでもできる。
元々、自分は少なからず好意は抱いていたのだ。それこそいざこざしか予感されない仲間内で、一線を超えても良いと思うくらいには。恋愛なんてお綺麗な名前は後から飾っても許されるだろう。
難しい。鼻歌を歌いながらクリーチャーはじゃぶじゃぶと煮立てた洗濯物を石鹸液に漬けて叩いた。この荘園で配給される石鹸は質が良いので、臭くもなければよく汚れも落ちる。泡立ちの良さが高品質の証だ。メレンゲのような泡をすくってイライに吹きかけると、小さく笑って叩かれた。
「僕にまでそんなことをしないでくださいよ。ナワーブに殺されたら冗談じゃ済まない」
「彼がそこまで執着すると思うか?私はただのおじさんだよ」
「嘘ばっかり」
肩をすくめてイライが頭布を干す。ぱんぱん、と綺麗に伸ばす様は堂に入っていて、クリーチャーが手ほどきするまでシワシワのままに干していた男とは思えない慣れた手さばきだった。頭の良い子だ、とクリーチャーは唇の端をあげる。だから彼を選ばない。愛は単純なほうがわかりやすい。熱は浮かされてこそだ。それ以上に理由はあるが、ともかく結論を述べればクリーチャーはナワーブがお気に入りであった。
エマ・ウッズはどうしたのかと疑問に思う人間もいるだろう。彼女は別格だ。幸せにすべき相手であって、場合によってはナワーブが彼女を幸せにするのだって悪くない。クリーチャーの手元に何が残るかはまた別の話で、今は可愛い手駒が欲しい。そのためならば自分の何もかも差し出したって良い。嘘を一つついた。ナワーブは大人のくせに、自分が素直に向き合えて、慕わしさに恐怖を覚えない貴重な相手だ。その理由は知っているけれども、切り捨てねばならない可能性もあるので無視をしている。
優しくするのは、いつだって理由があった。かわいそうだから。この手がなければ立てないから。立たせてやったら自己満足に浸れるから。ありがとうが欲しい、その言葉と一緒に他人からやってくるコインは多ければ多いほど幸せを約束してくれる。人に自分を"慈善家"と呼ばせたのは表看板を作りたかったからだ。優しくするのは当たり前だろう。優しくされるのも。
けれども今の自分はどうだろうな、と宙ぶらりんの心地でいる。最初は、ゲームに勝つためだった。今はどこかでこの架空の王国が続いて欲しいと望んでいる。もしかしたら、もう自分は死んで行けるはずのなかった天国にいるのかもしれない。この外へ、現実の世界に帰って待ち受けているものに耐えられるか、少しばかり心細い。誰も自分のそばにはいない、一人きりを寂しいと思えるようになったのはこれまで犯してきた恥じることのない罪に対する罰だ。
ナワーブの目がきらきらと輝く瞬間が好きだ。ウィリアムのラグビーボールと肘当てのどちらが早いか競い合っている様子は微笑ましい。今日の料理は何かと、さりげなく自分のリクエストをねじ込もうとする姿はいじましく、夜眠れぬ彼の話を聞くのは心地よく鼓膜が震える。だから、自分は彼に優しくて、ずるいことをしたい。誘いかけるような真似を織り交ぜるのは一か八かの勝負だ。普通の人間であれば、クリーチャーが送る秋波に気づきもしない。ある一定の人間だけに気づかれるものに、彼が引っかかってくれたらば、この楽園にずっと一緒に残って夢を見せてくれるだろうか。見せて欲しい。
「二人とも幸せになる分には構いませんけど、僕の目の前でいちゃつくのはやめてくださいね」
「ありがたく祝福は受け取るよ」
自分にだって恥じらいくらいはあるのだ。そんなつもりはさらさらない。そもそも、ナワーブが応えてくれるだなんてありうるのか?泡をかき混ぜて空に飛ばす。夢はかくも儚く美しいものだ。ぱちんと弾けていくその一つ一つを見送っていく。時とともに全ては通り過ぎる。足を止めるのはいつだって自分だ。ナワーブは、足を止めてくれるだろうか。一緒にこの泡を美しいねと見送って欲しい。
洗濯物を全て干して、汚れた湯などを捨てる。桶や鍋を並べてお疲れ様といたわってやり、石鹸の残り数を調べたところ、そろそろ発注をかけないと不足しそうだった。幸いにして今日は夕方に発注書が回収される。仕組みはさておき、明後日頃には届くだろう。誰も配達人を見たことがないというのに、発注書が必要と言うあたり、中途半端に現実的でおかしな話だった。思えばゲームの最中は電話で注文させられている。あれも荘園の主人なりのユーモアなのかもしれない。金持ちの考えることはさっぱり不明だ。
ホールの門口に下がった発注書のボードを取り、クリーチャーは他の人間の注文と被っていないかを確認するべくざっと眺めた。嗅ぎタバコとウイスキーはカヴィン・アユソ、機械油はトレイシー・レズニック、獣脂と書いたのはウィラ・ナイエルだ。ウィラは何を作ろうとしているのだろう?不可思議だが通り過ぎる。そしてーーシーツ、肌着、パジャマという奇妙な注文をしたのはナワーブだ。石鹸の個数を書き添え、受取人に自分の名前も記すも胸はざわつく。何をしたら必要になるか、考えてみれば明白だ。ベッドの上でのお遊戯で、相手の衣類は無事だったらしい。ふうん、とクリーチャーは鼻を鳴らした。ふうん。そう。
がっかりだ。ペンを置き、クリーチャーは溜息を零した。こんなことだと思ってはいた、知ってはいた、可能性なんていくらだって考えられた、そうだというのに自分は!想像の中で自分の望みの芽を摘むのと、現実の中で摘まれるのではまるきり異なる。暗い気持ちに陥りながらも、クリーチャーはエプロンを脱いで丁寧に畳んだ。神様はいつだって知っている。取りこぼすべき魂とすくいあげるべき魂、クリーチャーは断然前者だ。世間的には悪手を打ち続けてもなんら恥じるところはない。自分で歩いた道は自分で選んで、歩いてきたのだ。だが誰かと歩く将来を夢見た時に、どうして他の道を歩けなかったのかと悲しく思う。備品室の棚にエプロンをしまうと、クリーチャーは首を傾げた。頬が濡れている。
「なんで泣いてるの」
備品室を出た矢先に出会った存在に、クリーチャーは心の中で舌打ちした。備品室のお向かいのリネン庫から出てきたナワーブは至極不審そうな表情で、そんな顔は見たくなかった。今は、どんな顔だって見たくない。言い繕う言葉が喉を上がって来れず、掠れた空気ばかりが漏れ出る。固まった空気に、ナワーブはどういうわけだかリネン庫に戻って再び出てきた。そっと、頬に柔らかい感触が触れる。洗い立てのふわふわとしたタオルの優しさが憎たらしい。
「泣いてるのか?埃でも入ったんだな。今度掃除しないと」
「埃だけじゃこんなに泣かないよ。何?ねえ、何があったの。俺に教えてよ」
君には関係ない。何しろ架空の夢想が潰えただけなのだ。しかしこれまでのやり取りから、ナワーブが答えを得るまで食い下がるだろうことは明白である。今、玉ねぎを刻んでいるところだったら良かったのに、うまい理由を見つけられない。そのくせ涙というやつは勝手なものでするする流れていくのだ。自分の目のだらしなさを知ってクリーチャーは生まれて初めて情けなさを覚えた。片目になった時さえ胸を張っていた自分が、である。仕方なしにクリーチャーは思いつく限りで無難なものを選び取った。
「……少し、昔を思い出しただけだ」
「俺に話せない?」
鼻にかかった甘え声にも、妙な食い下がり方にも出くわすのは初めてで、クリーチャーは目を見開いた。遠ざけようとして選んだ回答であるくらいわかっても良さそうなものだし、ナワーブは物見高い人間ではない。タオルでぬぐいながら、ナワーブがぎゅうと抱きついてくる。ばくばくと鳴る心臓の音はばれていないだろうか?こんな風に、誰かに昨日触れたのかと思うと憎たらしくて羨ましくて妬ましかった。言葉を持たない獣のようにクリーチャーは喘いでナワーブの肩口に顔を埋めた。
昔は辛かった、とは思いたくない。客観的に判断されれば、可哀想で辛くて苦しい道のりと下衆で下世話で堕落した生活を一直線に歩んでいたことはわかっている。当世貧乏は自堕落さ故と結論づけられ、酷い場合は収監されたり精神病院に入れられ見世物になったりと犬以下の扱いを受けること多々だ。だが声を大にして言いたいが、断じて自分だけで作り上げられた世界ではない。それだってイバラの茂った道のりは黄金で敷き詰められた虹の橋だと思っても許される。そんな後ろ姿よりも、目の前の出来事がただ辛いと言っても彼にはわかるまい。
「ピアソンさん、」
熱に浮かされたような声が降る。首筋に絡んだ手が、妙に湿っぽさを帯びて滑り落ちた。
これは夢だ。備品室の扉を閉めてからナワーブは後悔するべきか甚だ迷った。引き返すならば今である。取り返しがつかなくなるぞ、と理性はしきりと喚いていた。こんなことをして許されるのか?濡れたクリーチャーの目に、夢の姿が重なって口付けたのは、まだ脳が夢に浸っている証拠だ。なぜ彼が抵抗しないかは謎だが、何度も口付けて、角度を変えて、あまつさえ口の中を舌で蹂躙して意思を確認しはした。
備品室の奥へと向かった彼を追いかけるのは、幼い頃に野山で獣を追いかけた心地に似ている。行き場などどうせないのに。夢にまで見た味わいは如何程だろう。涙を流させるような過去ごと丸ごと飲み込んでしまいたい。お飾りはどうしたんだっけ、と頭に何かが引っかかる。そうだ、このまま追い込むだけでは片手落ちだった。
「ピアソンさん」
声をかける。まるでそれしか言葉を知らないように、恭しく、欲望を可能な限り押しとどめてもう一度。上気した呼吸を追いかけて棚を追い過ごし、酸味ドロップの詰まった瓶と瓶の向こうに佇む目を見つけた。涙は止まっていたが、目は潤んだままで濁っている。何が彼を曇らせるのか、それを拭い去りたくてナワーブは瓶をそっと押しのけて隙間を開けた。
「そっちに行っても良い?」
「……だめだ、」
だめなんだとクリーチャーが首を振る。タオルを痛いほどに握りしめるから指先が真っ赤だ。なんでも作ってくれる、夢の中では驚くほどの幻戯を見せてくれた手を見て一層心が痛む。触れたいのは目先の気持ち良さ以上にその心だ、とナワーブの前で夢が弾けた。お飾りにするにはこの王冠は余りにも重い。
「俺があんたを好きだと言ったら、そっちに行っても許してくれる?」
「き、き、きき君はッ」
瞬間クリーチャーが爆発した。真っ赤に染まった頬がありありと気持ちを伝えてくる。どうしてまた泣くのだろう。自分の何が彼を傷つけるナイフだったのかがわからず、ナワーブは静かに待った。この棚を崩して、飴を床中にばら撒いて、めちゃくちゃにしてやってクリーチャーの目を奪いたい。だがそれは夢だ、空想だ、まだ足りない。
「君は他に相手がいるくせになんで、そんなことを言えるんだ」
つっかえながらクリーチャーが言うところをまとめるに、どうやらこんな話らしかった。ナワーブには特定のお相手がいて、それに不義を働いてクリーチャーを誘おうとしていると。冗談を言ってもらっては困る。酸味ドロップの重たい瓶を思い切り脇に避けると、ナワーブはひらけた空間に漂うクリーチャーの表情を捕まえた。隙間に手を差し込んで、向こうへと伸ばす。その顔に触れて、自分のために流した涙をすくい取りたい。
「いないよ。何を見てそんな風に思ったのか知らないけど、俺は面倒臭がりだからね……知ってるでしょ、ピアソンさん。窓拭きした時のこと、覚えてる?」
「……君がおざなりにしか拭かないから、私が二度拭きする羽目になったな」
一歩、クリーチャーが近づく。ぐすんぐすんと鼻が鳴るのは泣きすぎたのだろう。自分のために流したかと思うと汚く歪んだ顔すら愛しい。そう、現実とはこんなものだ。夢より脳が痺れる。そして、窓は面倒なほどに大きい。
「俺がどれだけ思ってるのか、できること全部であんたに伝えさせてよ」
「それはちょっと怖いな」
ふふ、とようやくクリーチャーが頬を緩めた。ナワーブよりも薄く、皺でよれた手が向こうから伸ばされる。手のひらを握りしめて、現実の熱に逆上せそうになった。
「そっちに行っても良い?」
「いや」
するりと握っていた手が離れる。岸から突き放されたようにすこんと胸の中に穴が空く。喘ぎ声が漏れそうになるのを抑えて縋るように見ると、クリーチャーは軽やかに棚をぐるりと回った。いつまでも棚に手を突っ込んでいた間抜けなナワーブに、クリーチャーの手が絡む。ぎゅ、と抱きすくめられてナワーブは叫びだしたくなった。
「ここは埃だらけだからな。外に出てお茶でもしよう」
「……ずるいなあ」
「君はこれからいっぱい私にくれるつもりなんだろう?」
何を、とクリーチャーは言わなかった。言葉だけでは足りない、現実も夢も混ぜ合わせて全部を足し算して引き算してやり直さねば全てだなんてとても伝えられまい。先に部屋を出たクリーチャーの後ろ姿が柔らかくて、ナワーブは夢とだぶつく自分に苦笑した。ふと目をやれば、近くの棚にエプロンが畳んでしまわれている。迷わず掴み取ると、ナワーブは弾むような胸の音を聞いた。
〆.
あとがき>>
お題箱にいただいたリクエスト「愛を謳う余裕があるなら喘いでろ」を元に書いたお話です。どストレート!と電撃が走ったのですが、よくよく考えたら愛を自覚するよりも愛は愛なんだな……言葉はいつだって物足りないなら、言葉だけでなく全てで伝えようとするだろうし、原始的なコミュニケーションはまさに喘ぎのようなものなんだろなあと腑に落ちました。すごいリクエストをいただいてしまった……ピアソンさんは臆病で、その分ずるくて手に入れたものはそこにあるだけ手放さないような甘え上手なのもまた良いなと思います。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!