これがあなたに届く音
音なき笛で友を呼ぶ
自分の口に入るものを自分で獲得する、仲間に分け与える、というのは子供から大人へと脱皮する過程の一つと言える。与えられるだけのものから与えるものへと変化するのだ。オロニル族では兄弟闘技も他者に自分を一人前だと認めてもらう重要な過程だが、狩りができねば始まらないと言えよう。故に、どちらも上手くできないエスゲンは、見た目は大人であっても子供のようなものなのだった。
幸いにして、オロニル族の子供達はこの「子供大人」に優しい。話しかけやすさやおやつを貰えるといった彼らなりの利点もあるのだろう。周囲に認められた大人達からは軽んじられる分、エスゲンもどちらかと言えば幼い彼らと付き合う方が気安かった。だから、いつも共にいるジェルメ達に狩の練習をするからついてきてほしいという頼みにも二つ返事で承諾したのである。
「なんだ、おっさんも来るのか。せいぜい足手まといにならないようにしてくれよ」
「クズク君も来るんだね。大丈夫、クズク君の邪魔をしないようにしているよ」
当然ながら狩りの練習には一人前の大人も必要なのだった。近頃特にエスゲンに突っかかってくるクズクである。慣れているとは言え辛辣なセリフに、エスゲンは少々胸の痛みを覚えた。半分は情けなさと、もう半分はまだ残っているオロニル族の男としての矜持を傷つけられた苛立ちからである。
「そう言うことじゃなくて……もういい。ジェルメ、今日の獲物はどれにするつもりだ」
「エスゲンおじさん、僕が無事にとれたら、グログロの肉でスープを作ってくれる?」
「グログロの?勿論だよ!」
小さな子供よりも遥かに大きな獲物があげられ、エスゲンは目を白黒させた。目標が高いのは良いことである。さすがは誇り高いオロニル族の子供だと微笑ましく思っても良いのだが、エスゲンの胸中では無事に終わるだろうかという不安がじわじわと雲をかけ始めていた。とは言え誇らしげなジェルメの兄の前で口にするには憚りがあるし、折角意気高揚としたところに水を差すのは気まずい。不安を押し隠してエスゲンが頷くと、ジェルメは顔を輝かせてクズクにあれこれ狩りのやり方について質問をし始めた。エスゲンにとってもためになるものだから、真摯に聞き入りーーこの危機感とでも呼ぶべきものはすっかりどこかに忘れられてしまった。
「そっちに行ったぞジェルメ!今だ!」
「うん!」
勢子になったクズクがグログロを追い立て、戸惑いと怒りで走る赤い生き物は毛を逆立ててジェルメ達のいる方向へとまっすぐ向かっていく。真剣な目をした子供達が次々と弓をひきつれる様は絵物語のように美しく壮麗だ。
「なんでまだ死なないの?ジェルメ、逃げよう」
「嫌だ!僕はおじさんにスープを作ってもらうんだ」」
「ジェルメ!」
しかしそこは子供の膂力というものが壁となって立ちふさがったらしい。弱い力で放たれた矢は獣の皮膚を貫くことなく弾かれ、今や戦況は逆転していた。勢子であったクズクが青ざめ、子供達は散り散りになって逃げ出しているというのに、ジェルメだけが意固地になって動かない。胆力云々以前に致命的な危機である。気を揉んでいたエスゲンが迷う時間はなかった。
「おじさん!」
「ジェルメ君は早く逃げて!クズク君、」
咄嗟に獣の走る方へと体を滑り込ませると、ほんの数瞬後に重い痛みがどんとエスゲンを襲った。ジェルメが悲鳴をあげ、クズクが罵声を飛ばす。獣が腹を突き破るのではないかという恐怖と、頭の下にある硬い地面に打ち付けられた痛みとで汗が流れ出る。最早悲鳴というよりはうめき声を上げるより他にない。周囲の人間が何か言っているーーどうやらクズクが無事に獣を打ち倒したらしいーーしかし何故ぼんやりとしか聞こえないのだろう。薄れゆく意識の中で、エスゲンは疑問だけを飛ばしていた。
ぱちりと目を開けて、エスゲンは自分が生きているのだろうか、と肉体を見た。血肉が備わっているし、ゲルの向こうに見えるのは始まったばかりの夕焼けである。どうやら夕飯の支度には間に合いそうだ。ゆっくりと体を起こすと、エスゲンは腹と頭を触り、どちらも無事だーーと手を止めた。この頭には奇妙な違和感がある。
「おっさん!起きたか」
「クズク君」
心配をかけてごめんね、と言いながら、エスゲンはすべての音がぼやぼやと不明瞭であることに気づいた。ついでにいうならば、右側の空間ももやもやとしか感じ取れない。目ではない、と確認し、エスゲンは顔をしかめた。
「無事で良かった……ジェルメを助けてくれて、その……ありがとうな。俺の言っていることは聞こえているか?」
「ぼんやりとは。私の角、割れちゃったんだね」
「ああ」
これだ、とクズクが懐から取り出したのは、布地に包まれた黒い角の先端だった。形状から察するに、然程大きなものではないものの、角に穴が開いてしまったらしい。道理で音の聞こえが悪いわけだ。治らないことではないが、元の形に戻るまでに長い時間を要する。どれほどかはわからないが、しばらくはこの薄ぼんやりとした世界で暮らすより他はなかった。
「悪い、俺がもっと早く仕留めていればこんなことには」
「謝らないで、クズク君。君のおかげで私は無事なんだし……ジェルメ君も元気なんでしょう?」
「大分しょげているがな」
小さく笑うクズクに、エスゲンはようやく安堵した。起こってしまったことは仕方がない。クズクには笑顔の方が余程似合う。
「この角、もらってもいいか?もう同じことがないように覚えていたいんだ」
「え?うん、持っていても捨てちゃうだけだから良いけれど……なんだか照れるなあ」
「ど、どうしてそういう話になるんだ?」
慌てるクズクに、エスゲンは、まだジェルメほどの歳の頃のクズクはこんな風に素直であどけなかったと思い出した。あの頃は可愛らしくてたまらなかった。今ではすっかり大人の頼れるオロニル族の男となっている。羨ましさと眩しさで目が昏みそうだった。
「ふふ、内緒」
答えを言ったならば、意地っ張りのクズクは角を捨ててしまうだろう。自分が持っていても捨てるだけの惜しくもなんともないものの筈なのに、クズクに捨てられるのは勿体無かった。エスゲンの癖に!とクズクがむくれる。グログロのスープと羹を作るから手伝っておくれと頼みながら、エスゲンはゆっくりとこれから先のことを思いやった。自分の角が、自分がいつでもクズクの側にいる。それは悪くない、寧ろひどく心が温まる未来なのだ。
〆.