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開けたり閉じたり、閉じたり開けたり





 季節外れの大風が、庭の巨大な楠を押し倒したのは一昨日の晩である。頑健な建築物である館はさして被害は受けなかったものの、一つの窓が開かなくなった。どうやら枠が歪んでしまったらしい。ほんの少しの圧力で、こんなにも頑なになることを、クリーチャー・ピアソンは初めて知った。そもそもきちんと閉じて、開けて、開けて、閉じることのできる窓が完備された建物にずっと住み暮らしたことがなく、全てが初めてで新鮮な出来事である。そして今、呆然と自分の部屋で機能を失った窓を見遣っていた。

「これはちょっと直すのは難しいな……枠ごと交換した方が早いと思う。次の注文表に書いておくといい。交換と取り付けは手伝うから」
「つまり、当分閉めっぱなしってことだ」
「正解」

窓の持ち主の問いかけに、カート・フランクは肩をすくめて見せた。彼の顔が物語っている、たかが窓でしょ?注文をしてからいつまでに届くか定かではない。窓は、それまで閉じたまま。開けっ放しよりはましだというのはよくわかる。北側の部屋は日当たりが良好とはお世辞にも言えないし、窓のすぐ横に雨樋があるだけの場所だ。たったそれだけのことだというのに、何故だか自由を制限されたような心地がしてクリーチャーは顔をしかめた。

「何か他にも壊れたところでもあるのかい?」
「あ、いや、何も。大丈夫だ。ありがとう、カート」
「どういたしまして」

頭を下げてカートが去った後、わずかだが確かに歪んだ窓に近寄ってクリーチャーは外を眺めた。眼下には板倒しや窓枠越えを練習するようにと芝生の上に雑然と障害物が置かれている。草が生えていない箇所が散見されるのは、それだけ練習した人間がいるということだろう。この窓の向こうで、今日も誰かが練習する。決まり切った時間にルーチンをこなすべくやってくる人物を眺めるのはクリーチャーのひそやかな楽しみで、窓から身をのりだして全貌を見ると奇妙に自由になった心地がした。

 見られている方は気にしていない、ささやかな趣味だ。一歩間違えればクリーチャーへの周囲の評価からして覗き趣味だとつまはじきにされかねない。対象がエマ・ウッズならば完全にロケットチェア行きだ。しかし誰を害するでもなく、クリーチャーが眺めているのはナワーブ・サベダー、ただ一人である。今日も時間になったので、緑色のフードが揺れて準備運動に入り始める。その先は木立でちょうど隠れてしまって、窓の向こうに切り離された。

仕方がない。見えないのだから。開かない窓を軽く叩くと、クリーチャーはカーテンを引いた。ささやかな楽しみさえも奪い去った運命をひどく恨む。まだ覚束なくて、世渡りが下手だったことを思い出す。嫌なことがあると芋づる式に不快なことが記憶から引きずり出されるのを押しとどめたい。枕の中に隠しておいたビスケットが朝になったら消えていたこと、乱暴に跳ね除けられてくすねたコインがポケットから転がり落ち、結局全部とりさらわれたこと、舌打ち、罵倒、打擲、合間に一瞬だけ希望が見えることは何より嫌だった。希望があると、人は可能性を見てしまう。今の苦痛を我慢できると勘違いしてしまう。いつか良くなるのだ、それは本当に約束されたものだろうか?

 記憶に押しつぶさそうになって心臓がばくばくと鳴り、はっはっと荒い息がこぼれ落ちる。目玉が圧迫されているような感覚は、初めて左目を失った時の苦しみだ。額に浮いた汗を拭って、もう一度だけそっと窓の外を見る。まだ練習を積んでいるのか、あるいはもう帰ったのかも杳としてしれない。一から十まで決まり切った動きが完成されていく様を眺めると、何故だか整理された心地になるのが好きだった。点と点を結んで線を作る動作は、見知らぬ枷に嵌められたクリーチャーの脳裏を自由にする。だが今はだめだ。今は何も見ることができない。




 目が消えた。今日の鍛錬をこなしながら、ナワーブは館の方角を見遣った。戦場で培った経験から、他人の気配や視線、存在、そういったものに敏感な性質であるナワーブにとって、ここ数ヶ月続く”目”は気になる存在である。自分が鍛錬を始めると、決まって誰かが見つめてくる。当初は戸惑って不快感もあったが、概ね誰であるか見当がつき、それでも尚理由が判然としないうちに慣れてしまった。むしろ、見守られているのではないかという錯覚すら抱いていたのである。誰も見ない鍛錬は、どれほど常日頃通りの動きを達成しようともどこか物足りなく、仕上げのストレッチを終えても尚心は虚ろだった。

観客の名は、館の位置から察するにエミリー・ダイアーかフィオナ・ジルマン、そしてクリーチャー・ピアソンの三人が候補に上がる。さりげなく振り返るなどして確認したかったのだが、どうにも相手は用心深いのか尻尾をつかませないので大凡の見立てだ。エミリーは一週間前、見られていると思っていた頃にゲームに参加していたため脱落した。フィオナか、とナワーブはどこか神秘的な美しさを持つ女性を想う。何を考えているかは不明だが、ああいった女性に言い寄られるのも良いものだ。クリーチャー?あんな中年男が自分に?信じたくない事実である。だいたい、あの男は年甲斐もなくエマを追い詰めて楽しんでいるのだ。弱い相手に対して平気で暴力をふるうのは如何なものかと思う。何度か仲裁に入った時に掴んだクリーチャーの腕の細さは異様だった。弱いから、暴力に頼る。そう図星を突いてやったのは4ヶ月は前のことだろう。

 恨みに思われこそすれ、こんな風にただ優しく見つめてくるいわれはクリーチャーにはないのだった。さっぱりとした背中を思い切って裏返して館を見る。窓、窓、窓。どれかから誰かがずっと自分を見ていた。今はその目がどこにもない。どんな風に自分を見たのか、どんな思いで見ていたのか。声をかけることも手を振ることもなく唐突に終わったやり取りを惜しむ自分に気が付いて、ナワーブは小首を傾げた。ああ多分、

「さびしいんだ」

それは無条件に母親から与えられていた愛情に近かった。適度に離れた距離で、確かに見てもらっているというかすかな温もり。何度見上げても窓から答えは降ってこなくて、ナワーブは諦めて館に戻った。手に入れたと気づく前に失った気持ちはすかすかするような、ふわふわするような落ち着きのなさで、心がどこかに出かけてしまう。空には雲がかかっていて、灰色の景色を初めて疎ましいと思った。

 通用口から上がって入念に泥を落とす。掃除当番に当たった人間から散々苦情をもらい、自分も逆の立場になった際に大変苦労したので身についた行儀だ。緑が印象的な壁がぐるりを取り囲む廊下を進む。大きく開いた窓はどれもふわふわとしたカーテンに包まれ、全てが甘やかされていた。不潔極まりなく病気と貧困に包まれた都市、煤けた工場群、砲撃が飛び交う戦地、その全てからこの荘園は隔離され、水槽の中におさまったように穏やかに感じられる。荘園の主人が一匹一匹好きな魚を選り好みして水槽に投じて波紋が広がる。そんな風景を想像してナワーブはぶるりと身を震わせた。自分の運命が他人に委ねられているとしたならばぞっとする。

 緑の壁紙にいちご泥棒が滑り込んで(この奇矯な柄を教えてくれたのは意外にもノートン・キャンベルで、あまり近寄らないほうが良いという不思議なセリフも吐いた、ヒ素がどうのこうのというのはなんの話だろう)、滑らかに赤い壁紙の廊下に入る。館を形作る廊下たちは好き勝手な色に塗りあげられ、迷路のような構造に目印を与えている。次は黄色、そして紫。紫色の廊下から入った部屋が食堂だ。喉を潤そうと黄色い廊下に入ったところで、ナワーブはふと立ち止まった。開け放たれた窓の下のソファにフィオナがもたれかかって鍵を放って遊んでいる。

「やあ。その様子だとトレーニングは順調に終わったようだね」
「俺がトレーニングしていることを知ってるとは思わなかったな」

確かめるのは今だ。あなたであってほしい。母とも、これまで好きになった人間とも系統の異なる女性だが、それでもフィオナには好感を抱いている。向こうもその気であれば、ささやかな慰めになるかもしれない。浅はかな欲望を持ち込むのは反則ではないはずだ。荘園に集う人間は欲望の塊である。みんな人でなしでお人好しでちょうど良い。舌なめずりをしたナワーブを冷ややかに見つめると、フィオナはするりと鍵を床にはめた。ゲーム中と同じく、見る間にワープホールが開く。

「勘違いされることは歓迎すべきかもしれないが、あいにく私は君の運命ではないのだよ、ナワーブ・サベダー。今の私の発言は君の服についた泥と草から判断したまでだ。君の体温は上がっているようだし、騒ぎ声も聞いていなければ君のことだ、大方トレーニングでもしたと想像するほうが自然だろう?この廊下の向こうで、君が泥を落としてまでくるならば練習場が御誂え向きだ」
「降参」
「お褒めに預かり光栄だよ。では」
「ま」

って、どうか本当の運命とやらを教えてくれ、という口説き文句は過去に封じ込められた。勢いのいい風が窓から吹き込み、ばたばたとカーテンを暴れさせる。湿った匂いに顔をしかめて、ナワーブは舌打ちしながら窓を閉めた。窓の外では小さな池がきらりと光る。あそこには夜中になるとぐにゃぐにゃとした悪夢のような生き物が出るとウィリアム・エリスがマーサ・ベハムフィールを脅してどつかれていた記憶がある。フィオナが見ていたのが何にせよ、自分ではなさそうだ。

 紫色の廊下から予定通り食堂に入ると、イライ・クラークが出張占い師をトレイシー・レズニック相手にもっともらしい様子で営業する真っ最中だった。科学者の常として神秘的な現象を分解して論理立てたいと考えるトレイシーは、イライの上手い語りに流されて運命とやらに耳を傾けつつある。運命。フィオナも言っていたが、結局それは何を意味するだろう?閉め切られた窓がナワーブの胸をひたひたと冷やしてくる。あの先に運命はあったのか?

「やあ。君よりもうってつけのお客さんが来たようですよ、トレイシー。気になるなら横でご覧になってはいかがですか」
「いいの?」
「人の秘密を簡単に横流しするな、イライ。それと、勝手に人の頭の中を覗かないでくれ」
「覗く覗かない以前に君は全部開けっ放しなんですよ」

見せつけられるこちらの目にもなってください、とイライが涼しい様子で言って退けるのがまた小憎らしい。堂々としているのは全く稼げなかったとは聞くが路頭に立ち続けた成果と言えよう。促されるままにイライの正面の椅子に座ると、見られていることを強く感じて肌がちりりとする。電気が走ったような心地になるのは、目がなくとも強く見られていることを感じるからか。

「君が一番望まないところに答えはあります。拒んでも運命は必ず君を追いかけて来る。逃げても良いですが自分から向かうことになるでしょう」
「……まさか、お前"あれ"だって言うんじゃないだろうな」
「”あれ”ですねえ」

イライを前にして奥歯にものが挟まった物言いは不要だ。百歩譲って、自分を見つめていたのがクリーチャーだという最悪の事象を受け入れよう。だがそれが何になろう。不気味さを増しただけだ。拒むも何も、向こう側から仕掛けてくることはあるまい。事情のわからないトレイシーが、そういう抽象的な物言いが信じられないんだと抗議する。イライが指をさした先でーークリーチャーがバタートースト片手にこっそり食堂の入り口から離れようとしていた。目には力がある。まるでその空間に縫いとめられたようにクリーチャーの動きが止まった。

「ピアソンさん」
「なな、な、何だいナワーブ君」
「俺のことを見てたのはあんた?」

何が、でもなく告げた言葉にクリーチャーの肩が揺れる。絶望的なほどに当たりだとわかり、ナワーブはため息をついた。確かに、一番当たって欲しくない答えだ。だがこの棒切れのような男に何ができよう?少し力を入れて腕を握れば折れてしまいそうな存在に興味はなく、ナワーブは簡単に運命を捻じ曲げた。

「もう俺を見ないで。それだけ」
「……ああ」

わかったよ、と力なくクリーチャーが頷く。叱られた子供のようなうなだれ具合は腹立たしい。どちらが被害者だと思っているのだろう。バタートーストが床に落ち、慌てて拾った手が震えたことなど、ナワーブには関係がない。彼の運命は自分の運命と交錯せずに遠く離れていくだろう。遠ざかる足音に胸が痛んだのは気のせいだ。

「すごい。イライが言った通りになったんだね」
「おわかりいただけましたか。なんと今ならサービスで半額料金で承りますよ。どうです、トレイシー」
「じゃあね、」

果たしてこの情緒的なやり取りは科学に影響するだろうか。もはや自分の災難は去ったとみなし、ナワーブは今度は見物客となって他人の運命を垣間見にかかった。




 見ていたのか。ナワーブに指摘されて改めて、クリーチャーは自分の日々の生活を振り返った。彼を見ていたのは何もトレーニングの時ばかりではない。食事、廊下でのすれ違い、掃除当番、洗濯もののはためく布ごし、仕入れ品と注文表の確認、ハンターからの逃走、まるで足跡を辿るように痕跡を探していた。なぜかを知っていれば、もっと気分は明るかったろう。もちろん、クリーチャーの生活の中心は金とエマのはずだーーそれらはいつでも視界に入り込んでいる。だがこの生き抜いた右目が追っていたのはナワーブだった。

 指摘されて意識をするようになってはますます見たくなるというのに、禁じられてしまったことを歯噛みする。すごすごと自室に戻ったクリーチャーはバタートーストの表面をナイフでこそげ落として、どこか埃っぽくなったパンを齧った。まるで幼少期に孤児院で無理やり飲み込んだ食事のような味気なさで、打ち捨てられたお気に入りのスプーンを思い出す。たった一つの持ち物さえもへしゃげて用を足さなくなった、あの日。絶対に自分はこれを駄目にした連中が手にできなかったものを手に入れようと誓ったがどうだ、自分は未だに手に入れた気になりやしない。

外を眺める窓は閉ざされた。ぎゅ、と目をつぶる。見えないものはない。よく知っているのだからあとは簡単だ。見ないものは、ない。最初からそこには空虚だけが踊っていたのだ。細切れになった思い出をトーストに乗せて一つ一つ噛み砕いてゆく。自分が彼に優しくした理由は、他の人間にも手を差し伸べた理由は、荘園を居心地がいいと勘違いした理由は、全部ごみだ。

 鐘の音がする。もうじきゲームの時間だ。パンくずを払い、すっきりとした顔立ちでクリーチャーは立ち上がった。準備運動をこなす。手首足首どこもかしこもしなやかに、ゴムよりもはね飛び逃げ出そう。思えば泥棒に入って失敗した時には生きるか死ぬかの心地の中で笑いながら逃げたものだ。逃げることは得意だから、自分の心だなんて定まらないものからさえも逃げ出せるに決まっている。

 待機室に入り、フレディ・ライリー、ノートン・キャンベル、思わせぶりなフィオナ・ジルマンに挨拶をする。ナワーブはあちこちに喧伝する性質ではなく、あの場にいた他の面々も同じであるため、今以上に誰かに距離を置かれることはあるまい。このゲームでは誰かと手を携える事が必要だから、握らなくとも存在を感じ取っておきたい。それすらもナワーブは許さないだろう。彼は拒絶をするとは何であるかを知り抜いている。本気になったらばクリーチャーを殺すことだってありうる。生き延びたいという気持ちはまだ持っているので、今は従うことにしよう。自分が自分に愛想を尽くすか、万が一彼が許すか、そのどちらかの日がいずれ訪れる。

「今日のあんたの目はいいな。生き延びるよ、ピアソンさん」
「それは生き残りの勘というやつか?」

揶揄するようなフレディの声にノートンが返そうとした時、パリンと音が鳴って体はどこかへと連れて行かれた。どうか心も吹き飛ばしてくれ。しゃがんで縮こまりながらたどり着いたのは赤の教会だ。ここで結婚式を挙げる奴がいるかもな、と軽口を叩いたウィリアムをまぜっかえしたいつかの思い出のかけらを拾いそうになってやめる。少しだけ暗号機に触れて仲間と連絡を取り合う。自分はここにいる。遠くの建物の灯りが瞬くようにあちらに、こちらに、そちらに誰かがいる。

 ノートンの予言が的中したかのように、クリーチャーがハンターに出くわすことはなかった。時折視線を感じたような気はしたが、フィオナとノートンが代わる代わるにチェイスをし、救出しあい、隙間にクリーチャーも援助をするという流れで終始した。あれは一体誰だったのだろう。結局助けきれなかったフィオナとノートンにありがとうを叫びながらフレディと別々のゲートから出て行く。これまでこなしてきたどんなゲームよりも安全で、気が楽だったせいで落ち着かない。

行きは自動だが、帰りはおかしなことに徒歩だ。夢とも現実とも言える場所を行き来するならば、帰りも自動であっても良さそうだとは思う。坑道のような穴ぐらを通るとぞくぞくするよね、といつだかノートンは言っていた。彼は落盤事故で唯一の生き残りだったそうだから揺り動かされるものがあったのやもしれない。クリーチャーにとってはただの穴だ。気が遠くなりそうなほどに歩くと外に出て、波打つ野原を抜けると館が待ち受けている。この野原を突っ切ればそのまま町にでも出られると思って試みたこともあるが、気づけば同じ場所に戻されるので徒労でしかない。

 屋敷へと続く門までたどり着くと、ふとクリーチャーは後ろを振り返った。寂しい野原が広がっている。いつか自分がこの世界から抜け出す時、どんな気持ちになるだろう。仮初めの紐帯を背にして新しい人生を仕切り直す日、大金を手にしたワクワク感を想像しようとしてどうにもうまく行かずに失敗した。夢を描くことを失敗するたびに、自分が落伍者のような心地になるから嫌いだ。人には向き不向きがあるのさ、と誤魔化すように顔を手で拭う。

「ぼーっとしているんじゃない、クリーチャー。さっさと戻ってこい」
「へいへい、先生は面倒見がいいですねえ」
「治療の手伝いに来いとお医者先生が呼んでいるんだよ」

仮初めの現実に引き戻したのはフレディだった。クリーチャー同様にやすやすと危機から抜け出たフレディはいたって元気そうである。ノートンとフィオナの状態は手伝いが必要なほどにひどいのか。初期からゲームに参加しているエマ、フレディ、そしてクリーチャーは今や仕組みを把握しているだけでなく、基本の治療などをもエミリーから叩き込まれていた。玄関で足を止め、荘園の主人への発注表を確認すると、クリーチャーはおもむろに鉛筆で二重線を引いた。

 もう、見ることはないのだ。窓なんかなくたって、あれはずっと閉じたままの方が余程いい。希望の芽は絶望の前に摘むに限る。どやしつけるフレディに肩をすくめると、医務室へ向かいーー存外元気そうに椅子に腰掛けるノートンとフィオナに首を傾げた。一体誰に治療が必要と言うのだろう。エミリーに手招きされて診察台に腰掛けると、医者は曇った表情で上着とシャツを脱ぐように指示した。

「ストリップショーの趣味があるとは知らなかったな、エミリー。俺よりもノートンの方が楽しめるんじゃないのか?」
「あなた、本当に気づいてないのね。見てごらんなさいよ」
「……どうして」

腹が赤いのだ。点々と溢れる血の足跡だって、これまで一度も目にしていない。焼けるような痛みが腹部から広がり、額に脂汗が浮く。震える手で服を脱ぐのを、フレディが手伝ってくれた。シャツ同様にずたずたにされた腹部の傷は生々しく、これまで一切感じることのなかったことが一層不思議だった。

「痛覚は一応あるみたいね。精神的なものが原因かしら?あなた、ハンターから攻撃を受けても一切ひるまなかったそうね。何が起きたの?」
「いや、心当たりはないんだが。フィオナ、今日のハンターは誰だったんだ?」
「……君も見ていた通りだ、ピアソン。ロビーだよ」

どうしてあなたが気づかないのか不思議そうだった、私もおかしいとは思ったけれども、とフィオナが言えばノートンも頷く。ロビー。説明によればクリーチャーの腰程度の背しかない少年のようなハンターらしい。これまでも君は会ったことがあるという指摘も心当たりがなかった。ああ、そうか。きっと過去に関係があることだ。都合よく奪い去った運命。より良い未来を与えようとして失敗した道筋、ひとでなしと後ろ指を差された記憶、次々と思い起こされてうなり声が出た。孤児院を経営していたあの時の自分を否定するつもりはない。ないのだが、ここで暮らす内にウィラ・ナイエルのように忘れたふりがうまくなっていただけだ。

エミリーたちがせっせと治療を進めて行く。この傷は過去の膿が滲み出た結果だ。到底誰かに見せられるものではない。




 見られていた。一度意識すると気になるというもので、かえってナワーブは心の平穏を失いつつある。クリーチャーはナワーブの言に忠実に従ったのか、もう視線からは完全に自由だ。誰のものかわからぬうちは心地良く、誰のものかわかった時から気持ちが悪くなったはずの視線だが、なくなったらばなくなったで気分が良くなるわけではないとは一体どういう理屈だろう。

注意深く振り返ってみれば、朝食、廊下でのすれ違い、ゲーム開始前の作戦会議、掃除、仕入れの確認、そうした細々とした場面場面で視線を感じていたことがわかる。クリーチャーの対象がエマだと信じ込んでいた自分が馬鹿だ。中年の胡散臭い男に執着される理由がもし恋ならばゾッとする、と理性で考えるも感覚は何故かこの状況を甘受した。あれは恨みがましい目ではない。見守る母のような目を拒んだのは自分で、この背中に宿るものが寂しさならば自業自得である。

 そうして目が投げかけられることがなくなって七日は経ったろうか。ここで初めて、ナワーブはクリーチャーを見てみようと思った。見るなとは言ったがこちらから見るかどうかは別問題だ。昼食時、ウィリアムの要望に応えてひときわ大きいポークチョップを与えるクリーチャーの表情は柔らかい。君はよく食べるな、というクリーチャーは比較的少食だ。異様に食べ終わるのが早いのは育ちを思わせる。軍隊でも限られた時間内で平らげるために早く食べることを要求されるが、クリーチャーのそれは飢えから逃れようとする食べ方だった。

廊下ではノートンが馬鹿力で壊した鍵を直してやっていた。潰れているから取り替えた方が良いともっともらしい話をする。セルヴェ・ル・ロイが予備を持っているからちょろまかそうと言う顔は人が悪い。ただ善人ぶるよりも余程深みがある顔に、ナワーブは真実を見たような気がした。

「そういえば窓が壊れたって先日言ってたな。注文はもうしたのか?」
「いや……良いんだ。別に開けなくても良いからな。あの部屋は風がよく吹き込むし」

ああ、窓が壊れていたから先日のトレーニングは見守られなかったのだ。とすれば、クリーチャーは窓から身を乗り出すようにして眺めていたのだろう。そんな風に熱心でありながら、とうとうこちらが気づくことも、クリーチャーが声をかけることもなかった。そして二度とその日は訪れない。窓は閉ざされたままとなる。望んだのはナワーブだ。ぎゅ、と脳内をまさぐられたような心地で鼻の奥がツンとする。何か声を上げてしまう前に、ナワーブはそっと廊下を立ち去った。

 今日もトレーニングを始める。フィールドに置かれた窓枠の位置は湖景村の一角を模していた。もう何度もこなして眠っていてもできるはずのそれは、一つ目を超えた時点で失敗に終わる。足が浮く。腹の底の力が不足していて、二つ目の窓枠への移動はいつもより遅い。板まで向かう肘当てを滑らせ、ナワーブは流石に苛立って足を止めた。幼児でもあるまいし、誰かに見てもらって初めてできるものではない。館を見上げ、窓を眺める。閉じた窓、カーテンが半分だけかかった窓、そして開かれることのない窓。あそこから見ていたのか。

寂しいのか、と自問してナワーブは唸った。ああ、寂しい。寂しいとも!たかが一つの目がないことが、こんなにも自分を狂わせるとは誰が信じえよう?苛立ちが収まらず、結局今日のトレーニングは中止して館に戻る。折角の青空も忌々しい。通用口で乱暴に泥を落として廊下を曲がる。赤い廊下に繋がるのは医務室で、思わぬところから聞こえた声にナワーブは足を止めた。

「もう当分ゲームには出ない方が良いわ。まだ見えないの?」
「違う、意識すると見えるんだ……多分、見てはいけないから見えなくなったんだと思う」

エミリーとクリーチャーだ。そっと戸口に近寄ると、上半身裸のクリーチャーが腹の傷を縫われていた。もう共にはゲームに参加せず過ごすうちに、クリーチャーは腕が落ちたらしい。ナワーブが知る限り、クリーチャーが正面から攻撃を受けるだなんてへまはなく、ましてやゲーム終了からだいぶ時間の経った今になって手当を受けるだなんてことはなかった。いつも通りの時間割であれば、昼のゲームは一時間は前に終わっているはずである。いたた、と縫われるたびにクリーチャーが耳をくすぐるような声を上げ、ナワーブは身を竦ませた。他人の痛みが矢鱈と身近に感じられる。自分の痛み同様、他人のものなど遠くにちらつくくらいがちょうどいい。

「お見舞いならこそこそせずに入って頂戴。気が散るわ」

すっと声を投げられ、少し躊躇してナワーブは医務室に入った。こんなにもクリーチャーのそば近くにいるのは久しぶりで、シャツを着始めた男はひどく身体が薄い。浮かぶ肋骨の下に巻かれた包帯の真っ白さで目が潰れそうになる前にシャツで閉じられる。終始無言のクリーチャーの前に立ったが、不思議と目はナワーブを素通りするようだった。

「私を見舞う人間なんていやしないよ、エミリー。誰もいないじゃないか」
「クリーチャー」

悪意があってのわざとらしい物言いならば、まだ良かった。だが彼の顔に浮かぶ表情が何よりもナワーブの存在を引き算したことを物語っている。見るな、と言ったのはナワーブだ。わかった、という答えがこれだ。エミリーの物思わしげな声が身を着るように辛い。ナワーブはクリーチャーの手を掴むと、二度ほど振った。

「ピアソンさん、俺を見て」
「……ナワーブ君?どうしてここに」
「それは」

あんたに見て欲しいからだ、だなんて今更言うのも恥ずかしい。きょとんとするクリーチャーの様子に胸がつまる。今この場を逃せばまた日々は素通りしていく。けれども言葉はついて出ず、ナワーブは無理やりクリーチャーを引っ張って立たせた。戸惑うクリーチャーが声を荒げる。

「おい、君は、わ、私にみみ見るなと言った、言っただろう!」
「うん」

色とりどりの廊下を曲がって階段を登り、クリーチャーの部屋の前に出る。勝手に開けるなという声を無視して、鍵のかかっていない扉を開けた。こんな風に簡単に扉は開く。窓はカーテンで覆われておりナワーブは近づいて取り払った。窓からはーー身を乗り出せば、あの練習場が視界に入る。

「やっぱり、あんたに見てて欲しい。この窓を開けてよ、ピアソンさん。俺はあんたが見てないと駄目みたいだ」
「なんで、」

か細い声は窓ガラスを叩く雨粒だ。都合の良いことを頼んでいる自覚はある。それでも、この窓を開け放ちたい。ナワーブは正面からクリーチャーを見据えると、泳ごうとする青い右目を捕まえた。

「俺も、ピアソンさんを見ていたいから。あんたの気持ちがわかった気がするんだ……俺を見てよ。あんたの世界に俺がいるって安心させて」
「……君がずっといてくれるなら、考えても良い」

ようやく穏やかな表情で答えたクリーチャーに、ナワーブは背中に感じていた目の向こうを初めて正面に見た。こんな風に見ていたのか。暖かく、優しくて、それでいて風のようにさらりと吹き抜けていく。ナワーブが強く一回頷くと、クリーチャーの顔はますます緩んでナワーブの心を満たした。

 窓を注文しよう。そうして開け放って欲しい。佇んで、見守る彼に、今度は自分から手を振るのだ。返ってきた声を共に明日を迎えよう。積み重ねた日々の向こうで、もっと相応しい言葉を見つける、そんな気がしてナワーブは窓の外を指差した。

今日は虹がかかっている。


〆.


あとがき>>
 twitterで「#リプきたイラストや写真から妄想SSを送り返す」に、Loboさんから何か新しいことが起きそうな絵を受け取ったので、そこにいたるまでの影の部分と、絵から動き出す明日の話を書きました。ナワーブ君の顔があえて隠してあったことで、あれこれ想像するのが何よりも楽しかったです。失って初めて意味を知ることは多々あれども、取り戻せることは少なくて、ならば二人で新しく始め直せたら良いなと絵から話が広がりました。Loboさん、素敵な作品をありがとうございました!

そして最後まで読んでくださり、ありがとうございます!