天下無上
対とは、一体どのようなものを指すだろう。相生の松か、鴛鴦か、はたまた黒白、悲哀があれば歓喜もあろう。いずれにせよ、誰が見ても互いに唯一無二にして二つ並ばなければ十全ではないと分かればそれで良い。そんな風に自分を埋めて、相手を埋めて全一となることは無常の安寧に違いない。
幼くして親の手から離れて置かれることの多かった范無咎にとって、安寧とは何よりも優先度の高いものであった。同じ立場に置かれた、自分によく似た謝必安という少年を知った喜びはいかほどかは何者にも例え難い。性格こそ似てはいなかったが、二人の感じるところはまるで同じで、美味しいものも楽しいことも悲しいことも嫌いなものも皆同じだった。家族ですら理解できない范無咎の求める安寧を知り、互いに補い合うように傍に居られるのは謝必安だけである。間違いない、と范無咎は思った。彼こそは天が自らに授けた対であり唯一である。
「謝必安、遅刻だぞ」
「ごめんなさい范無咎、出かける支度に時間がかかってしまって」
待ち合わせにいつもの如く遅れてきた謝必安に低く声をかけると、范無咎は腕を組み直した。こちらが怒っていると思ってか、謝必安が小さく肩を縮こませる。またいつもの考えすぎの癖が出ているのだ。今日だってたかだか隣の街に来た移動雑技団を観に行こうとしているだけだというのに、謝必安の背中には幼童ほどの大きさの荷物が載っている。
「そんなものなんてなくたって、十分だろう。お前は色々考えすぎだ」
「そうでしょうか。どちらかといえばあなたが気にかけなさすぎるだけかもしれませんよ」
「こいつ」
キラリと目を輝かせて笑う謝必安の腹を軽く小突くと、范無咎は大荷物を精査して一本の雨傘だけを引っ張り出して押し付ける。残りはどうするのか、という謝必安の目に応えるようにして背負ってやれば、心の底から安堵したような幸せそうな表情を浮かべるのだ。なんやかやと自分が甘やかしてしまうのが悪いのか、それとも全て見越して謝必安が行動しているかは謎のままである。
心配性が血肉を得たように細やかに考える謝必安の荷物はいつも多い。手巾やちり紙だけでなく、道端で物乞いに出会ったら渡す小遣い銭まで持っているとなれば最早異常だろう。謝必安が何より恐れるのは誰かに嫌われ怨まれることなのだ。
范無咎に言わせれば、全く無用の心配である。自分、この范無咎以外の何を恐れる必要があるだろう?謝必安はこの世の全てを恐れすぎだ。江湖は途方もなく広く、言うなればどんな可能性もある。ただ互いの存在だけが確かだというのに、それに集中しないことのなんと無駄なことか。
一体どうすればこの憂いは晴れよう。謝必安の不安を拭い去れよう。何よりも、他所にばかり気を割いてばかりの謝必安に対する范無咎自身の憂いはなんとしよう。他人からは管鮑の交わりと言われるほどに仲の良い二人だったが、根底に抱えるものは違う生き物らしく別々なのだった。見えるもので繋げないのだからせめてもと、范無咎はどんな些細なものであろうとも謝必安との約束事は一言一句違えず守っている。約束を守ることは信頼の始まりであり信用の積み重ねであり言わば借りを増やすことになる。
他の誰が自分のように謝必安を支えられるだろう?求められるだろう?与えられるだろう?一体何が足りないと言うのだ!馬鹿げた考え方だとはわかっているが、最早約束を守ること自体が范無咎を安堵させていた。冬場に半日も待ち続けて風邪を引いたこともある。家族に内緒で遊んだケイ占で恐ろしい結果を引いたと言う謝必安のお祓いに同道したのは范無咎だけだ。あの時は行き先の道士が家族に連絡したために(当然お布施を要求するためである)二人揃って大目玉を食らってしまった。
こんなにも大切にしているというのに、この男は奪わなくては何も気づけないと言うのだろうか?范無咎だけあればそれで良い、他に何も考えなければこの上なく安心して過ごせるという真実にたどり着くには何が必要だろうか。
「ほら、やっぱり雨だ。持ってこないとこういうことになるんですよ、范無咎。私の言った通りだったでしょう?」
「たまには当たるものだな」
「可愛くないですね。ね、待っててください。すぐそこですし、傘を取ってきますから。ここで雨宿りでもしていてください」
「わかった」
些細な日常の積み重ねを経たいつの日かの、なんということのないやり取りであった。少なくとも、謝必安にとってはそうだったろう。しかし范無咎にとっては来たるべき時が来たように感じられていた。范無咎にとって、謝必安との約束は絶対である。破られることは決してない。恐怖はあったが、それを遥かに上回る安寧が約束されていたから、范無咎は過たずに迫り上がる水面に飲み込まれた。何故という声に手を振る。きっと彼はわかったろう。本当に考えるべきは何であり、如何に今まで考えてこなかったことを。
そうして我らは初めて対になる。白には黒を、黒には白を。無常なる世の中において常に変わらぬ唯一無二の対として存在するだけになった日、謝必安は何を思うのか。范無咎は最後の力を振り絞ってもう一度手を振り、ただ勝利の快哉をあげたのであった。
〆.