こんにちは、こんにちは
夏来る
朝、目が覚めた時に風の色が変わっていた。昨日まではまだ赤子のようだった草原は、今や力強い若者であることを盛んに誇らしく謳っている。身体中に流れ込む濃い青の匂いに、エスゲンは今年も無事に夏が来たことを体の端々で感じ取っていた。
「おはよう、末弟。良い風だね」
「おはようございます」
「夏がきたよ!白い季節が来たよ!」
「アイラグは混ぜたのかい?サボってちゃだめだよ」
「乳搾りに行こう、ヨーグルトをしこまないとね」
朝の明けの玉座は特に騒がしいものだが、今日は格別だ。皆一様に夏を感じ取り、白い季節に向けた支度を始めているのだ。普段であれば食事関係はエスゲンが一手に引き受けているのだが、季節の変わり目に行う仕込みばかりは集落総出で行うのが常である。白い季節は白いものを食べ、身体を夏に慣らして行く。白とはすなわち乳製品であり、発酵食品だ。
皆で一つのことをするというのは、普段はみ出しもののような扱いを受けているエスゲンにとって、オロニル族の一員であるという誇りを盛り上げてくれる一大イベントである。だからというわけではないが、エスゲンはこの季節の変わり目が一年で一番好きだった。発酵食品と合わせて干し肉づくりも始まっていて、こちらはブドゥガ族が率先して行っている。羊をナイフ一本で鮮やかにさばき、無駄なものを生み出さない。血も地面に吸わせずに全てバケツに集めていく手際は慣れたものだ。
逞しい男たちの夏のように溌剌とした動きに、エスゲンはマウシのことを思い出した。彼もまた、この草原のどこかで夏を感じているだろうか?太陽のよく似合う、草原の申し子が気づいていないはずはないのだけれど、エスゲンは直接聞いてみたくてたまらなかった。
「それが、どうしてこうなっちゃったのかなあ」
夏の到来から数日後、エスゲンは籠いっぱいの食材を載せた馬で草原をかけていた。のんびりとした口調とは裏腹に、今は絶体絶命のピンチである。泡を吹きながら走る馬の遥かに後ろから、すっかり大きく育ったベルスが追いかけて来ている。はあはあと荒い息が耳元まで迫ってくるようで恐ろしい。ともかく遠くへ、少しでも人のいる場所へと走らせているのだが、乗り手の技術にも問題があるのかなかなか振り切れていない。ややもするとオチューがたむろするあたりに来てしまう。
アウラ以外の生き物にだって夏はあるのだ。暑さに打ち勝つ活力をつけるためにも食糧は確保せねばならない。ケレル族が打ち捨てたゲルの残骸を横目に、エスゲンは必死に頭の中の地図をあれこれ移動させていた。もうしばらく走ればドタール・カーだ。その手前には、エスゲンがいつもマウシと出会う場所がありーー
「エスゲンさん、危ないよ!」
「マウシ君!」
横合いから馬が文字通り飛んで来たかと思うと、乗り手が虚を突かれたベルスの背に乗る。ついで、流れるように力強い拳が正確無比に獣の脳天に深々と叩きつけられた。力を失い、崩れた獣にとどめを刺すと、颯爽と現れたマウシは慌ててこちらに駆け寄って来た。エスゲンも馬を降り、ぜいぜいと震える馬の首を優しく撫でてやった。もう大丈夫だ。
「大丈夫、エスゲンさん。間に合ってよかった……この時期は狩りの練習をする若いのが縄張りから出てくるんだ、気をつけないとだめだよ」
「ありがとう、マウシ君。そうだよね、私ったらつい君に会うことばかり考えてて、周りをちっとも見てなかったよ」
かっこよかったよ、と素直に感想を伝えれば、マウシがエスゲンさんはずるい!と叫んで抱きしめてくる。多少、ずるいことを口にした自覚はあるが、エスゲンはそうかな、と嘯くことにしておいた。半分は事実であり、面と向かって話す機会もさほど多くないのだ、これくらいは良いだろう。マウシが指笛で自分の馬を呼び、エスゲンの馬と共に連れて行く。今日のご飯を作るのだ。
「……俺もね、いつ来るのかなって思うと落ち着かなくて、この辺をうろうろしてたんだ。お陰で助けられて良かった。今日は何を作るの?言われてた馬乳は持ってきてあるよ」
「助かるよ!急に頼んだのにありがとう。今日はね、夏になったから、夏のものを作ろうと思って。いつも作ってきたものをあげてたけど、たまには一緒に作るのはどう、かな……め、迷惑だったら良いからね!作ってる間気にしないで、そうだ鍛錬!鍛錬とかしてるといいと思う!」
「エスゲンさん、落ち着いて」
断られるかもしれないと思うと、先程馬で逃げた時のように心臓がばくばくと煩くなる。断られることにも、そもそも断られるからこそ声をかけないことにも慣れていたはずが、マウシの前ではどうにも初めてのように戸惑ってしまうのだ。マウシがぽんぽんとエスゲンの肩を叩き、まるで魂をあるべき場所に落ち着かせるかのように整えてくれる。少し呼吸をすれば、落ち着いた頃を見計らってマウシが手伝いを申し出てくれた。
「エスゲンさんと一緒に何か作るのって初めてだから、なんだかワクワクするな。あ、でもナイフを使うのはちょっと苦手だから、笑わないでほしい」
「笑ったりなんかしないよ」
馬から食材と鍋を下ろすと、エスゲンはマウシに簡単に煮炊きする場所を作るように頼んだ。その合間にヤンサの商人が運んできた米と、壺に入れておいた出汁、マウシの持ってきてくれた馬乳を入れる。小さな薄い布の袋に包んで持ってきたのは茶葉で、これもまた鍋に入れる。干した牛肉は戻ってきたマウシと一緒に適度にちぎって鍋に入れ、了解を得てからヤンサから運ばれた松の実を入れた。
「これでできあがり!あとは煮るだけだ。その間はこれをあっためて食べよう」
「やったあ、エスゲンさんのボーズだ」
本当は、もっと面倒なものを作っても良かったのだ。それこそこのボーズに手を加えてもいい。焼け石の上で蒸せられるように足跡の竃を整えると、エスゲンはじっとマウシと並んで炎を見た。冬に暖をとるのとは違い、夏の火は純粋にこちらを楽しませるようなやんちゃさがある。程よい頃に鍋を吊るして火にかけると、入れ替わりに取り出したボーズをマウシに渡した。昨晩の残り物を使ったものだが、一日おいた分だけ味が染みているはずである。
「んーっ美味しい!口の中にいっぱい煮汁が溢れて来る……それにすごく体の中に力がこもった気がするね。さすがエスゲンさんだ」
「ふふ、マウシ君に喜んでもらえて嬉しいな」
二人はそれから互いの集落の夏支度について話した。ドタールはオアシスがそばにあるため、水の匂いが変わってわかるのだという。明けの玉座はぐるりを水に囲まれているものの、居住区とはだいぶ離れているためか、水について考えたことはなかった。冒険者に泳ぎを習ったら、いくらか面白い風景が見られるのかもしれない。夏は一層暑くなるため、ドタールの装束は程よいだろう。一方で、太陽に近いオロニルの装束はいささか厚手だ。自然、昼間は天幕の中にいることが増える。
「確かに暑そうだものね。中にも着込んでいるの?着るのも難しそうだな」
「着るのはそんなに難しくはない……と思うけど、マウシ君ほど簡単じゃないね。こら、な、何をしてるんだい!」
伸びて来たマウシの手に驚いていると、青い水のような無垢な手はゆっくりとエスゲンの装束の合わせを解いて行く。一度も着たことがない服を開くにしては器用だ。暑い折にははだけることもあるものの、誰かに脱がせられるのは子供の頃以来である。一方、マウシはいたって平然とした様子だった。
「上だけでもどうなってるのか見たくて」
「わかった、わかった!上だけならあとで脱ぐから待っていておくれよ。ちょうどご飯が出来た頃だし、先に食べよう」
「本当?それじゃあ早く食べなきゃね」
あっさりと引き下がるマウシがうらめしい。安堵するところなのだが、エスゲンは振り回され損のような疲労を覚えていた。鍋を杓子でかき混ぜてみれば、程よく蕩けた米と干し肉とが顔を見せる。乳白色の煮汁が美しい。鍋とともに持ってきた鉢によそうと、エスゲンは匙とともにマウシに渡した。
「はい、どうぞ。ブダータイボルツツァイ(干し肉入り茶粥)だよ。本当は朝ごはんに食べるけど、夏の始まりにぴったりだと思って作ったんだ」
「……夏の匂いがする」
「うん」
夏が来た。草原に、エスゲンの身体に、マウシの身体に。夏を身体いっぱいに取り込んだならば、エスゲンはマウシともう少しだけ夏を分かち合いたいと思う。粥が腹の奥底から熱くさせる。夏だ。
真っ白になるこの夏、マウシは何を思うだろう。
〆.