遣らずの雨
雨が追いかけてくる。突然降り始めた雨脚は思いの外早く、力強く、背中を捉えようと走り込んでとうとう范無咎を捉えてしまった。折しもまだ目的の場所には遥かに遠く、足元ぬかるむ山道でのことであった。体が冷える前にと、ぐっしょりと濡れた服に辟易しながら薄明るい昼を彷徨う。駅亭まではもう少し、どうにかやり過ごせそうだ。
隣県の長官に仕える叔父から、祖父の代に終わったはずの訴訟が舞い戻ってきたと書簡が来たのはつい先週のことである。証文の類を持っていくようにと父親に命ぜられ、渋々ながらも范無咎は隣県に向かって山一つを越えようとしていた。早馬は、と強請ってみたが当たり前のようにお前の健脚頼りなのだとすげなく断られる。馬には何かと金がかかるので致し方ない。油紙に包んだ証文の類が無事であることを祈りながら走ると、どうにかこうにか駅亭の屋根が見えてきた。
「ああ、助かった」
「随分と濡れましたね。この辺りの雨は強いですから難儀したでしょう」
駅亭の扉を開けてようようたどり着くと、先に椅子に座っていた青年がくるりとこちらを振り向いて労いの言葉を向けた。すっとした白面郎君で、吹いていたらしい笛が脇に置かれている。商人には見えないので芸人の類だろう。なるほどもてはやされそうな顔立ちだ、と范無咎は濡れた服を乾かすべく干して隣の椅子に座った。火炉から伸びる火が暖かい。
「……私の紙子でよければお貸ししましょう。随分と濡れているようだ」
「いや、流石にそこまでは」
「いいんですよ」
距離を取ろうとすると、反対に青年はぐいぐいと詰め寄ってくる。手際よく行李から紙子を取り出すと、着なさいと押し付けられて范無咎はもごもごと礼を述べた。どうにも調子が狂うが、ありがたいことに変わりはない。袷も脱ぐと、行李から取り出した布で体を拭いて紙の衣をまとう。ふわりと柔らかな紙はなかなか良いものらしく、肌触りが良かった。
「私の商売道具です。良かったら宣伝してください」
「抜け目がないな。……たしかに、これは良い。今迄着たものとはわけが違う」
「お褒めに預かり光栄です」
「お前の名は?ああ、俺は范無咎という。これから隣県にいる叔父を訪ねるところだ」
「范無咎」
瞬間、范無咎は戦慄するものを覚えて愕然とした。この声を自分は知っている。雨がとりまく空の下、たしかに耳を打った音は脳裏に染み付いていた。青年も同じ面持ちで、ぱちくりと目を開閉させて唇を震わせた。花弁のような美しさを持つ唇がほころび、力強く結ばれる。
「私は、謝必安と申します」
バリバリと雷が鳴り響く。この雨はあの日の再現だ、その前も、ずっとずっと前もこうして雨の音を聞いた。降り積もり巡り来た時を確かめるように、范無咎は喘ぐようにして彼の名前を呼んだ。
「謝必安」
我らは出会う。いずれの時にか、いずこかで、必ず。追いかけてきた雨に打たれるようにして巻き込まれる運命に今度こそ抗おうと、范無咎は拳を握りしめた。
〆.