尽きることなく、果てもなく
欲しがりの私たち
需要があって、供給がある。欲望に対して釣り合うものが提供されることほど、望ましいものはない。需要があるうちが花であり、供給があるうちが盛りだ。逆を言えば、機を逃してしまった分を取り戻すことは難しく、均衡を崩せば不具合を生じるということでもある。
「晋作。秘技を教えてくれ」
「は?」
好機を逃さず天賦に恵まれた男、高杉晋作は思いがけぬ人物からの問いに耳を疑った。質問者は隠し刀、気の置けぬ謎めいた友人である。出会った当初は随分剣呑で、本当に人間だろうかと半ば疑っていたのだが、今では嘘のように生臭く面白い。
「絶技、妙技の類でも良い。ともかく閨での技について教えて欲しい」
「待て待て待て、あんた、本気で言ってるのか?」
閨での、という単語にさしもの晋作も咀嚼しきれない。道理で海辺にでも散歩に行こうなどと櫻屋から連れ出されたわけだ、と納得するも、そこまでだ。ついで、じわじわと喜びがこみあげてくる。他の誰でもなく自分を相談相手に選ぶとは、名誉であるし、相手の垣間見ようとしても見えぬ人間らしさを知る絶好の機会だ。やはり自分はツイている。土手に吹く潮風が殊更心地よく感じられた。
「晋作、垂れているぞ」
「おっと、危ないところだったな。ありがとうよ」
道中買ったみたらし団子に持ち主の動揺が伝わったらしい。慌てて手を舐めると、隠し刀がじいっと痛いほどの視線を向けてくるのを感じた。彼を知らぬ人間であれば、ひょっとして自分に気があるのではないかと勘違いするほどの熱烈さである。どうやら本気で困っているらしい。これ以上心配しないためにも団子を食べきると、晋作は懐紙で串を包んだ。
「前提として聞かせてくれ。秘技とやらがあるとして、あんたは誰に使うつもりだ」
「情人だ」
他に誰があるのか、という憮然とした面持ちはなかなかの見ものだった。遊郭では『腕は良いが、あからさまに情がなく野暮』と極めて不名誉な評判を得ていた男が、今では情人ただ一人に首ったけとは世の中何が起きるかわからない。尚、これはただの噂話ではなく、興味本位で晋作が隠し刀を相手にした妓たちから直接聞いた感想である。
故に、情があればこの男はどこまでも魅力的になるはずであった。相手が余程遊び慣れているのか、我儘なのか、そもそもはぐらかされてばかりの情人とやらは一体何者なのか、興味は尽きない。可能な限り神妙さを装って問いを重ねると、隠し刀は淡々と返した。
「まず、相手は男だ。遊び慣れては……おそらくいないだろう。少なくとも、私が初めての男であることは確かだ。元々快感を得難かった部位も、今では大分楽しめていると思う。ただ、」
「ただ?」
またぞろ好奇心が膨らむのを感じつつ、晋作は大人しく待った。始まったばかりの宴を早じまいさせるのは余りに惜しい。
「逢瀬の度に寝るわけではない。会う機会が少ないから、ただ共に過ごすだけでも私は嬉しいし、男相手は体に負担もあるだろう。だが毎回その……誘いを受けていて」
始まりはそれとなく仄めかされる程度であったが、近頃はあからさまに大胆な誘いを受けるのだという。冥加ではないかと晋作はしばし鼻白んだ。衆道の気がない相手を堕とし、ついで寝子として理想的な状態にまで仕立て上げたのは隠し刀の才覚と細やかな愛情に相手が応えてくれている証左と言えよう。良い話ではないか。自分であれば喜んで手練手管を披露して繋ぎとめ、決して離れぬようにするだろう。
「誠意をもって説明しても納得してもらえないんだ。相手の方が弁も立てば頭も回る。顔を合わせる機会を増やそうと努力はしているんだぞ?だからせめて、閨でもっと満足してもらいたいと、痛っ」
「あんたはやっぱり野暮だ」
しどろもどろの言い分に業を煮やし、晋作は思わず指先で相手の額を弾いた。確り痕が残ったようだが、知ったことではない。野暮は本質的に野暮なまま、全く聞いているだけで呆れてしまう。彼らが繋がっているのは、ひょっとしなくとも情人の懐の広さ故だと推察された。
「時間が短くたっていい、相手が触れたいと思って、あんたも触れたいと思うなら我慢しないことだ。あんたはまだ枯れちゃいないだろう。負担が出ない程度に抑えればいいだけの話だ。欲って言うのはな、上を知ったらキリがない。その上ろくに手に入りもしなかったら、不満は大きくなるばかりだ。相手を思いやるっていうなら、自分勝手な口封じなんざ止めて、腹をくくるんだな」
「……可愛いんだ」
ふ、と綻んだ隠し刀の表情に、晋作は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。太刀筋で、潔さで、その行動の妙味で自分を魅了してきた男が、こんなにも慈しみに満ちた顔を隠していたとはついぞ想像だにしなかった。少し間違えたらばあらぬ道に引きずり込まれそうで恐ろしささえある。
「私が一度で堪えられても、向こうが治まらないと拗ねて、ついつい無体を働いてしまう程に可愛い。よし、腹を括るから秘技を教えてくれ」
惚気の甘さと、思い切りの良さが清々しい。いつか情人とやらの顔を拝みたいものだ。残念ながら、野暮は自覚と指導がなければそう簡単には治らない。たまには先輩風を吹かせようと決意すると、晋作は人間見習の背中を叩いた。
「良いぜ。とはいえ、俺は男同士のことについて、そう詳しくはないがな。ま、ひとつ知恵を絞るとしようか」
欲は人を引きずり込み、振り回し、時に生みの親である人を潰してしまう。頭のてっぺんから足のつま先まで酒好きである福沢諭吉にとって、欲望の恐ろしさはよくよく理解できる。人は欲に弱い。禁酒を志した端から煙草を嗜むようになる自分が最たる例だ。
しかしながら理解できない欲望というものもあって、周囲の人間が足しげく通う悪所に関する獣欲はどうにも受け入れ難かった。人と話す際にはあからさまに『きたないところ』などと表現までしている。情人や伴侶がいなければ、生理現象は己一人で治めれば良い。あたら無駄打ちするだなんて、とまあこんなご高説を掲げていたものである。
聖人君子でないにせよ、変わり者扱いされるには十分な要素だった。行かずとも人のこと、情の交わし方はわかると嘯いたこともある。いつかは誰かと、という気持ちはあれども常に他人事で自分は慮外だった。
それが情人を持ち、あろうことか同性同士の行為に耽るようになったと知れたらば、周囲の人間にとって青天の霹靂だろう。口外するつもりはないものの、諭吉は今や欲望を制御できなくなる気持ちばかりは痛いほどに理解できるようになっていた。だからといって悪所通いが良いとは様々な点では思えない。
「ううん」
中津藩屋敷の自室で、諭吉は文机に置いた書物から目を上げた。常ならば辺りが暗くなるのも構わず、気を失うまで夢中になるはずの内容がまるで頭に入ってこない。そもそもいつも以上に居合の回数をこなしたため、疲労がたまっている。油を浪費するわけにもいかず、さっさと寝れば良いのに眠らない、否眠れないには理由があった。
体がそわそわしている。具体的には腹の奥がぽっかり空いてしまったような物足りなさが理性を蝕んでいた。朝から時折ざわめいた気持ちは、どうもがいても自分を離してはくれないらしい。理性的な言葉で説き伏せようにも、頭に浮かぶのは洋書が語る産業構造などではなく獣欲についてばかりだ。
意識すれば猶更気になるというもので、書物を閉じてさあ寝ましょうと灯りを消し、敷きっぱなしの布団に寝転がっても体は活性化する一方だった。頭を使って体も使って、それでも尚元気とはこれ如何に、と別方面に思考を巡らせようとしても無駄である。暗闇の中で自身の下腹部を弄り、諭吉は絶望的な事実を理解するに至った。
「嘘でしょう」
既に陰茎が硬くなり始め、膨らみを作っている。情人ができるまでは精々朝方に起きるくらいだった生理現象だ。隠し刀の顔を思い浮かべただけでずくりと腹の奥が重くなり、陰茎は益々順調に育ちゆく。完全に逆効果だった。では、と恐る恐る寝巻きをはだけて胸元に手を這わせると、ぴん、と立ち上がった乳首に掠めて悲鳴を上げそうになる。
一回吐き出せば落ち着くだろうか。ため息をつきつつ割り切ると、諭吉は起き上がって懐紙の束を枕元に置いた。ついで下着も脱ぎ、寝巻きはもしものためにと帯を解くだけに留めておく。手慣れたもので、この程度のことは灯りがなくともスルスルできてしまう。ここに隠し刀がいたらば、暗闇で見ることができないとぶうたれそうだと想像し、くすりと笑みが溢れる。見たらば見たで顔を真っ赤にしてソワソワし始めるので、脱いでるこちらが恥ずかしくなるほどだ。そんな初心さも好ましい。見る人のいない雑な脱衣はすぐさま布団の上に転がり、掛け布団の中に閉じ込められた。
下腹を優しく揉み、じわじわと体をほぐしてゆく。元々激しい運動をしたこともあり、体から力が抜けるにはそう時間がかからなかった。芯を持ったままの陰茎を両手で擦り上げ、先端を指の腹で慰める。文字通り慰めでしかない、と濡れ始めた己に虚しさを覚えるも行為は止まらない。溢したぬるつく涙を塗り込めるようにして血管を辿り、動かす速度を上げて早く終われとただ願う。誰よりも一番手慣れたはずの自分の手が、今夜はどうしてか違和感を抱かせた。
「っ、なんで」
ぬこぬこと動かそうと、直接陰嚢を触ってやろうとも、体は重くなるばかりでちっとも浮かび上がらない。そういえば自慰自体が久々だ――情人との逢瀬がまちまちである身の上としては見上げた成果と言える。操立て、という単語が頭を掠めて顔が歪んだ。その情人とこちらを使う場合は、互いのものを擦り合わせたり、相手の懇願に負けて口淫してもらったり、遊びの終わりを告げるために愛撫されたりするくらいで、いつも何か別の行為が伴っている。要するに物足りないのだ。
先ほど確認のためだけに触れた上半身に舞い戻れば、育ち上がった乳首が嬉しそうにぴりぴりとした刺激を全身に伝える。下腹部に鈍く甘い重みが増し、諭吉は研鑽を積むようなものだと言い聞かせて両手でそれぞれの乳首を摘んだ。奥歯をギュッと噛み締めねばならぬほどの声が溢れそうになる。陰茎の反応なぞ、言うまでも無い。
胸を揉み、按摩の要領でほぐそうとしても目的はまるで異なる。彼がどうしていたかをなぞる復習で、口付けられないことが寂しい。乳首に掠めるか掠めないか、ギリギリのところを指先で擦り、太ももを擦り合わせて記憶に救いを求める。男はいつも優しく、諭吉が望むところを察するのが上手い。玄人では無いかと疑いたくなるような緩急のつけ具合は、後々故郷で学んだのだと教えてくれた。それを異常だと一切思わぬ境遇を憐れむべきか、失われた故郷の所業に怒るべきか、どうすることもできずに唸ったことをよく覚えている。
「ひんっ」
自分を叱咤するように乳首を強く引っ張ると、だらしない声が小さく漏れた。やわやわと刺激を与えつつも、心臓にはだらりと冷や汗が流れている。両隣の住人は大概夜遊びに忙しいとはいえ、もし誰ぞが通りかかれば、あの福沢諭吉がと物見高く覗きかねない。俗っぽさに辟易する。
男の歯が欲しい。少し大きく、存外綺麗な並びをした歯が乳首を噛むと脳天が痺れるように心地良いのだ。弾いて、噛んで、吸って、なんだかよくわからないうちに気持ちよくなってぐずぐずに溶ける過程が好きだというのに、自分で駆り立てるのはどうにももどかしい。彼だったらどうしただろうか、を反芻しても所詮は偽物だと解る自分の冴えが邪魔だった。
むしゃくしゃするままに前も弄って、どうにか押し殺した声と共に吐精する。懐紙で拭うも、もっと、と強請る己が嫌になった。強請る相手がいないのに、腹が空いたとざわつく。摂理に反して情人を受け入れるための器官になった体内が恋しいのだ。腹の上から触れて、一体どこまで入っていたろうか、と思うといよいよ駄目だった。
とはいえ、自分で後ろを弄ったことはない。それこそ情人が丁寧に慈しみ育ててくれた成果であって、諭吉の普段の生活には無関係だからだ。こんな風に胸を弄ったりするだけでも恥ずかしいというのに、手段がない中求めたくなるなど不面目に泣きたくなる。四ツ目屋に行けば慰めるものがあると聞いたが、無機物とはいえ他人のものに用はなかった。
「確か、ここでしたかね」
この部屋には通和散もない。進退窮まった末、頭に閃いたのは欲しがりの手前、会陰だった。いつぞや隠し刀が、ここも中と繋がっているのだと触れるようになって以来、全く未知の個所に好奇心を刺激されていたのだ。脚を持ち上げ、ゆるゆると勃ち上がる陰茎をいなして奥を探る。先ほど吐き出した体液で滑りを帯びた指が一点を掠めると、ぐっ、と腹の奥がうねった。
ここだ、と思うといくらか切なさが治まる。腹と繋がっているのだ、ひょっとすると体を壊すかもしれないと気を使うのももどかしい。体が求めるままに陰茎を刺激してやって、寝間着を口に入れて噛む。もはや黙していることは難しかった。中に情人が入り、動いていることを想像しながら腰を揺らす。きっと今の自分ははしたない顔をしているだろう。隠し刀を翻弄するにはうってつけの状況なのに、肝心要の相手がいない。
二度目の一人遊びは深く、より良い満足感と同時に一層の空虚さを増したが、体はひとまず治まったらしい。荒く甘い息をこぼしながら後始末をし、諭吉は心の中で情人を理不尽に呪った。
陰間遊びが下火になって久しいとは言え、同性同士の行為が絶えたわけではない。寧ろ市井に広がっているのだな、と隠し刀は世間の奥深さに改めて感じ入った。晋作への相談事は、結局彼だけの知識では不足していると舎弟である奇兵隊たちにまで及び、中華街の宴が形成されるに至る。
沈黙の中で人生の大半を過ごしていたこともあり、一生分では無いかと思うほどに他人の声を聞いた隠し刀は、己がすっかり耳年増になったことを実感していた。今ならば、坂本龍馬が話す意味不明な猥談の大部分を理解することができよう。あの男は自分を揶揄うのが好きなのだ――たまには意趣返しでもしなければやってられない。
散々惚気に愚痴、自慢話と眉唾ものの噂話を聞いた結果知れたのは、とどのつまり世の営みは男女問わず彼ら次第であって、それぞれの最適があるだけという平凡な答えだった。お陰様で、隠し刀の当初案は少々の修正をするだけで生きながらえることになった。若人たちにやいのやいのと囃されつつ妙技なるものを閃いた時には、胸の支えが降りたようにすっきりした。密かに決意を固めていると、途中から呆れ果てて遠巻きに眺めていた晋作がトントン、と肩を撥で叩いた。
「何をするのも二人の勝手だろうがな……相手が本気で誘ってるんだ、あんたがすることについて、最初に了解を取ってからにすると良いぜ」
「それはお前の経験か?」
「まさか。あんたの相手からのちょっとした憶測と勘だよ」
「肝に銘じておこう」
十中八九、彼の経験に基づくものだと確信するも深入りは避けた。その先を考えもせずに墓を掘り起こしたところで、碌なことにはなりはしない。積もる話を聞いてもらった分、いつか彼が語りたい時に聞けば良いだけの話だ。一同に丁重に礼を述べると、未来ばかりが眩しい青年たちは精一杯の応援を返す。後で酒でも贈るとしよう。
「ありがとう、晋作。行ってくる」
「今からか?」
「時間が惜しいからな」
約束を待っていたらばキリがない。会う機会を増やすとするならば、まだ自由が利く自分が動く方が早いのだ。第一、何より自分自身が会いたいと思う。素直にそのようなことを話すと、物分かりの良い男はやれやれと首を振った。
陽が傾いた中華街を馬で駆け抜け、江戸に向かう。江戸は遠いな、としみじみ感じ入った。近所に遊びに出かけるのとは訳がちがう。片割れの行方には関係なかろうと探索範囲外にしていることもあり、諭吉に会いに行く以外では出かけない場所だった。その出かける回数自体がそもそも少ない。諭吉は仕事が主な目的とはいえ、この距離を足繁く通い、かつ自分の長屋まで足を運んでくれているのである。おまけに彼は大概徒歩だった。
そんなことにも碌々気に留めず、出鱈目に振った賽子の出目に従うような行動を取るばかりの自分は間が抜けているとしか言いようがない。口を開けば餌が入ると思うほど太平楽ではないが、似たようなものである。野暮。かつて港崎で教えられた言葉の意味を、隠し刀はようやく身を以て理解していた。
「一緒に住めたらな」
いつも夢は、夢のままだ。
キツネにつままれている。千駄木まで盆栽を取りに行くという益体もない使いを終えて藩屋敷に帰った諭吉は、自分宛だという文を開いて小首を傾げた。
『会いに来られたし 永代橋前 下総屋』
見覚えのある飾り気のない字がちらばっているが、差出人の名前がない。文を持ってきた下女に誰からかと問えば、つまみ食いをする男たちをとっちめる小鬼と称される烈女がにわかに相好を崩した。
「優しそうな方でしたよ。どこぞの若旦那さんじゃないでしょうか。落とし物を拾った礼を言いたいと仰ってね」
ついで、諭吉に渡すつもりだったという米菓子を下女たちにとくれたらしい。下士あたりが見つけたらば、すわ押し込み強盗の先触れか、と血相を変えたことだろう。さりげなく詰れば、江戸生まれの下女はけろけろと笑って跳ねのけた。
「あんな柳のような人に何ができますか。お会いになられたら、私たちからのお礼を伝えてください」
「承知しました。確かに伝えましょう」
一つの屋敷を滅ぼしかねない男だ、と伝えても信じてはもらえまい。急な訪れも知らせ方も珍妙だが、嬉しいから良しとしよう。心当たりは一人きり、剣呑な呼び出しもない気楽な身分だ。昨晩の出来事以来、どうにも落ち着かぬ自分にとっては願ったりかなったりである。
はやる気持ちのままに言い繕って屋敷を飛び出し、木場から出て日本橋へ。地理がわかりやすく、かつ人通りの多さから何が紛れ込んでもわからぬ最適な場所だ。下総屋は仕出し屋に声をかければすぐさま解った。
「奮発しましたね」
近づけば削りたての木材の香りが漂う宿は、ごく最近に建てられたらしい。看板代りにどんと店先に置かれたつやつやとした紅紫色の木材を眺め、諭吉は下総国は林業が盛んであることを思い出した。確か、下総杉といったか。縁があるのか材木商らしき風体の人々が出入りし、ちょっとした社交の場でもあるようだ。下足番に諭吉が声をかけると、話が通っているのかさらりと仲居に案内される。大方男が――隠し刀が言い含めていたのだろう。階段を上がって奥の奥、中庭がよく見える渡り廊下の先に辿り着くと、仲居が襖の前に座った。
「失礼します。旦那さん、お客様がいらっしゃいましたよ」
「ありがとう」
入ってくれ、という声は紛れもなく情人のそれで、諭吉の心臓がとん、と跳ねた。声一つでこんなにも嬉しい。付き合いたての仲でもこうはいかないだろう。襖の先に行くと、広々とした畳の間で隠し刀が寛いでいた。ぱっと輝いた情人の表情につられるように対面に置かれた座布団に座ると、ふかふかとした綿がぎっしり詰まって心地よい。これはいよいよ大枚をはたいたな、と諭吉はもじもじした。男が散財するのは珍しい。
珍しいといえば、隠し刀の佇まいも普段とは異なっている。若旦那ではないか、と下女が錯覚したのも無理はなく、濃緑の布地に宝尽くしが施された羽織は一目で上等だと見て取れる。浅葱の着流しは淡く落ち着いた色合いで、羽織と同じく上等かつ、今まで見たことがない。おまけに顔もこざっぱりとし、ぼさぼさだった自由な髪が行儀よく収まっている。彼が江戸でこなす用向きのために必要なのだろうか。情人ということを抜きにしても興味深く、しげしげと観察していると、温かな声がかかった。
「そう黙って見つめられるとは予想外だった。似合わないか?」
「……お似合いですよ」
まさか、これを見せるためだけに自分を呼んだのか。稚気に溢れた行為は隠し刀らしいといえども、あんまりな振舞である。
「下女たちが喜んでいましたよ。菓子をふるまってくださったそうで、ありがとうございます」
「それは良かった」
味方になってもらいたいから、とさらりと男は恐ろしいことを言う。押し込み強盗の話が頭を掠め、ついで振り払う。いくら隠し刀が腕の立つ人物とはいえ、道理にもとることはすまい。
「これから諭吉を誘う時、つないでもらいやすくなる」
「え?」
「下総から来た材木商が、落とし物をきっかけに友情を結ぶ、という筋書きはなかなか良いだろう?」
正面から堂々と入れる身分ではないから、と照れ臭そうに言う表情はたまらなく愛嬌があった。恐らくこの毒気の全くない様子に小鬼たちは懐柔されたのだろう。
「まさか、そのために……」
見てくれを装い、文を寄越したのか。手の込んだやり口には流石の諭吉も恐れ入らずにはいられなかった。じわじわと頬が熱を持ち、ぎゅうと胸を掴まれたような心地になる。江戸と横浜は近いようで遠い。しかしその間は基本的に諭吉が埋めるより他になかった。まさかまさか、こんな口実を作ってくれるだなんて!
「諭吉に会いたいのは、私も同じだからな。これからはもっと会おう」
「……僕は幸せ者ですね」
ほうっとため息がこぼれ出る。これは安堵と幸福の湯気だ。ゆっくりと近づいていた隠し刀が口づけて、その思いを飲み干していった。昨日から欲していたものを与えられ、じん、と頭がしびれる。腹の奥が震えた。離れ行くのを追いかけると、ちゅるりと下唇を吸われて牽制される。
「一つ、相談がある」
「それは、今しなければならないことですか?」
野暮だ。張り倒したい気持ちを精いっぱい堪えると、諭吉は生真面目な表情を作ろうとする隠し刀の胸を指先で突いた。
「うん」
「どうしても?」
拗ねたような口ぶりが気恥ずかしい。彼を前にすると、どうにも自分は子供じみた振舞も平気になってしまうようだ。
「どうしても」
「はあ、仕方がありませんね。早くしてください」
いらだち紛れにぎゅうと強く抱きしめると、隠し刀がぐぇ、と色気のない声を漏らす。だが、彼が続けた提案の方は、更に色気のないものだった。
「前にも少し話したが、私は諭吉と同衾したいといつも思っている。ただ、長く続けるためにほどほどにしようとしていただけだ」
自分が誘って不発に終わった数々の日々が頭を過り、諭吉は眉間に皺を寄せた。大切にされているのは解っていても、壊れ物扱いには耐えられない。
「考えたんだが、減り張りをつけないか?今日は、今までで一番深いところまでするから」
「あっ」
着物越しに背筋をずい、と下に向かってなぞられ反射的に声が出る。指先は悪戯に尻の辺りに届きそうなところで離れた。
「それで満足できるか、試してみてくれないか」
「勝負しようというわけですね」
返しつつも、諭吉は一体何の勝負だろうと口をへの字に曲げた。一方的に欲しがりのような物言いをされて、むかっ腹が立っていた。否、彼も自分を求めていると口では言っているので同罪か。
「良いでしょう。そこまで言うならば、僕を満足させてください」
喉骨に噛みついて、諭吉は戦いの火ぶたを切った。
満足とは奈辺にあるのだろう。上に上がれば上があると知るように、満足した瞬間からそのまた更に先を望みはしないだろうか。知恵は欲望の架け橋だ。人が繁茂したのも、あながち理想からだけではあるまい。現に隠し刀も、一度成長を止めてしまった色ごとに関する技術を磨く事態になっている。人は満足し切ることはない。ただ、一瞬一瞬に落とし所を見出すだけだ。
諭吉の了承を得て支度をし、ふかふかの布団で寝転んだ時、あれが最初の落とし所だったように思う。何せ一緒にいるだけで相当に自分は満ち足りて――否々、全くの大嘘である。あまりにも相手が躍起になっていて気が引けただけだ。互いを弄りながら服を脱がせるのは楽しかったし、夢中になりすぎて諭吉の撫でつけた髪がすっかりボサボサになってしまった。前髪があるだけで随分と幼く見える。普段きっちりと隙なく身だしなみを整えている分、ほんの僅かな綻びさえも淫美に感じられると言ったらば嫌がられそうだ。
綻びと言えば、諭吉の体は既に自分の手で変化を生じている。感度はもちろんのこと、胸や尻の肉が以前よりも豊かになり、乳首も随分と可愛がりやすくなった。本人はおそらく気づいていないだろう。気づいたらば控えめにするよう苦言を呈されるはずだ。あるいは既に自分は許されているのだろうか?
情人の良いところは降る星よりも挙げられるが、適応能力の高さは抜きん出ている。旺盛な好奇心とあいまって、閨の成績も極めて優秀だった。気持ち良いことは好きだとあからさまに感想を述べられたこともある。これが本当に同性相手の寝技を知らなかった人間だろうか、と驚くと同時に誇らしさを覚えたものだ。要するに自分が努力をし、相手もそれを受け入れ喜びを分かち合ったということだろう。
正面から繋げた状態で体を揺らしつつ、隠し刀はいたずらに蠢く相手の手を叩いた。
「こら、触っては駄目だ」
「んんっ……やぁ、さわってなんか、いま、せんっ」
嘘だ。慣れとは恐ろしいもので、快楽で目が潤んだ諭吉の手は悠々と己を慰めようとしていたように見受けられる。体力があることは知っているが、気持ちの上でも余裕があるのだろう。だが、このままでは『いつも通り』になってしまう。今日は事前に諭吉の前は一切刺激をしない旨伝えているので、一度でも前で達してしまえばあらゆる計画は水疱に帰す。機嫌を損ねぬように体勢を整えると、隠し刀はやんわりと強請った。
「そうか?では、私が寂しいから握っていてもらえたらば、嬉しい」
「あなたが寂しいなら、仕方がありませんね」
良いですよ、と開かれた左右の手それぞれに自分の手を重ね合わせ、指を絡めて握り締める。純粋な笑顔が嬉しくて、隠し刀はそのまま体の角度を変えた。握った手で勢いをつけ、より奥深くに繋ぐ。ごつん、と腰骨同士がぶつかる度に、驚きの混じった獣のような声を上げて諭吉が喘いだ。先ほどまで焦らしながら緩く刺激していた要所を急に攻められたのだから当然だろう。
ぎゅ、ぎゅと指と体内の締め付けがきつくなり、全身で絞り上げようとする素振りがいたく隠し刀を刺激した。遠ざかって、引き寄せて、体全体で互いの快感を高めながら、蕩けてゆく情人の顔を見ると胸が何かでいっぱいになる。きっとこれも幸せなのだ。
「や、や、前も、触ってくらさいっ!おかしい、こんなあぁ」
「気持ちいいのは好きだろう」
大丈夫だ、と首を振って否定する諭吉の顔中に口付けする。感極まって泣きが入り始めているのは可哀想だが、望む最果てはまだこの先なのだ。いつもであれば解放してやるところを走り過ぎて、奥の奥へ。軽く達したのか、腹に体液がかかる。
「やらぁっ!とまって……んっ、こわい、へんれす」
「大丈夫、私も一緒だ」
握りしめられた指が痛い。痕がつくだろうな、と隠し刀は見返す時を楽しみに思った。きっと幾度もこの瞬間を思い出す縁となるに違いない。幼児のように喃語を話す諭吉に優しく言い諭すと、ぽわ、と情人の顔が緩んだ。
「いっしょ?」
「ああ」
「うん」
それなら、良い。言った瞬間、諭吉の体が海老反りになり、ピン、と足が跳ねた。少し体を離して確認すると、彼の陰茎は膨らんでいるものの、半端に屹立したままとろとろと白濁を溢すのみだった。深く長い喘ぎ声が放たれ、諭吉が体の奥底で達したことが知れる。ひくひくと痙攣する内奥に刺激され、隠し刀は奥歯を強く噛み締めた。自分も限界だ。外で出そう、と手を開いて体を離そうとすると、逆にぎゅっと手を強く握り直された。
「諭吉、一旦出すから離してくれ」
「一緒が良いです」
先ほどまで天に向かっていた脚がぎゅう、と背中に回され離さない。まだ余韻に浸っているようだが、半ば理性を取り戻した瞳が隠し刀を射抜く。
「もっとあなたをください」
「……お前には敵わないな」
「ふふ」
嫣然とした笑みに、ひょっとするとやはり自分の作戦は失敗だったのではないかという嫌な予感が頭を過った。こんな顔を見てしまったら、自分だって歯止めが効かなくなってしまうではないか。
「そうだな。頑張ったからには褒美を出さないと」
そして、満足のひと言を引き出してみせる。新たな決意を胸に、隠し刀は優秀な情人に口付けた。
〆.
あとがき>>
夢中になってしまうけれども耽溺しないように頑張る、もがき・足掻きが好きです。時代が時代とはいえ、子供が多いな……という史実からこんな破廉恥を想像して申し訳ないとしか言いようがない。書きながら正気を殴り続けたおかげで、前よりも書けている気がしますがまだまだ難しいですね。もうちょっと軽いものを書くはずだったのでは?わからない……でも可愛いから仕方がない!
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!