やっぱり一人より二人でしょう?
二人遊び
朋有り遠方より来る、また楽しからずや。古臭い言葉を転がさずとも、坂本龍馬は全身で喜びを感じ取っていた。傍には渋々ながらという調子で岡田以蔵がトボトボ歩いている。先ほどまでは強引に手を繋いだり肩を抱いたりしたものだが、とうとう観念はしてくれたらしい。この風来坊のような幼馴染は故郷を離れて折角再会できたと言うのに、気ままにあちこち出かけて行方知れずになりがちである。往来で偶然出会した時の己の幸運をいかほど噛み締めたものか、理解できるのは同郷者の中岡慎太郎くらいなものだろう。
「隠し刀の長屋まで、後少しぜよ。楽しみじゃな、以蔵」
「楽しみゆうは龍馬さんだけじゃろ。わしは面倒ち言うたがじゃ」
「おまんの顔を見たらば、あいつも喜ぶ。確か薩摩の強い酒を手に入れたばかりらしい」
「……龍馬さん、さてはそいが目当てか」
「さあなあ」
半分は正解、半分は不正解である。だが率直に会えて嬉しいと伝えたところで響かぬ以蔵だから、龍馬は言葉を重ねることはやめにした。旧交を温めるために盃を酌み交わすには別段二人でも構わない。されどわざわざ隠し刀を交えようと考えたのは、近頃妙な方向に思考が傾きつつある以蔵に気分転換をさせてやりたかったからだった。黒洲藩という物騒な過去さえ引きずるものの、かの浪人は誰よりも自由に悠々と飛び回る。その自由さは町人も滅多にもたぬ、思考の自由さだ。分け隔てない付き合いを象徴するのはこれから向かう長屋で、完全中立地帯と化したあの場所では米国の提督だろうと攘夷過激派の志士だろうと等しく客人として収まる。元々、茶湯の集まりはそうしたお互いの立場を脱ぎ捨てた身分の上下もしがらみもない場だと聞くが、隠し刀の長屋はまさにそのものだ。
「さ、着いたぞ。様子を見てくるき、ちっくと待っちょくれ」
とは言え、いきなり異人や幕府の役人と以蔵を引き合わせるわけにもいかない。以蔵を通りに立たせて先に行くと、龍馬は長屋の前に置かれた看板に気づいて顔を顰めた。『危険!薬物実験中につき立ち入り禁止』。文字通りの意味ではない。長屋を訪れる縁ある人々には重要な符牒である。もちろん龍馬はいの一番に隠し刀から説明を受けており、この看板が置かれている最中は情人と逢瀬をしているので絶対に入らないよう、どうしても必要である場合は玄関先で必死な声をあげてほしいと頼まれていた。
龍馬が二つ返事で承知したのは言うまでもない。人でなしとして育てられ、まごつきながらも人間味を増してゆく隠し刀の姿を側で眺めるのは、龍馬の楽しみの一つでもあったし、友人に真っ当な情人ができたことはめでたい。ひょんなことから当の情人、福沢諭吉と顔を合わせたこともあり、龍馬は陰ながら二人を応援してもいた。
しかし、事情がわからぬ人間にはただの注意書きに過ぎない。入らぬ時間が長かったのか、痺れを切らした以蔵がずいと近寄ってきた。
「どうしたがよ、龍馬さん。あいつはおらなんだか」
「あー、そうとも違うとも……こいは」
説明しようとし、龍馬は僅かに迷った。情人は非常に私的な事情である。誰にでもあけすけに話して良いものではなかろう。煩悶する龍馬をよそに、以蔵は看板を見てとって小首を傾げた。
「『危険!薬物実験中につき立ち入り禁止』?なんじゃ、中にはおるがかえ。おーい!」
「ま、待っちょくれ、以蔵!」
確かに以蔵を捕まえることは難しい。が、友人の逢瀬を阻む程ではない。慌てて以蔵の袖を引くと、龍馬は腹を括って小声で説明した。
「えいか、こい看板をあいつが出しゆう時は、情人と逢瀬をしている最中っちゅう意味じゃ。邪魔したら可哀想じゃ。やき、今日のところはまた出直そう」
「はあ、そいならそう教えてくれればえいじゃろう……っ」
く、とくぐもった声が僅かに建物の中から聞こえ、以蔵の肩が揺れる。艶めいた、湿り気を帯びた音は耳の良い龍馬にも同じく届いた。表情が然程顔に出ない、無骨な男が奏でるには思いの外豊かで、心くすぐられるものがある。ほんの少しだけ情景を想像し、龍馬は見たいという本能的な好奇心がむくむくと沸き起こるのを感じていた。別段あれに思慕はなく欲情もしないが、隠し刀も、相手の情人も四角四面でかっちりとしており、崩れる姿を見る機会は滅多にない。友人の、他には見せぬ顔というものは興味深い。だが、と理性を総動員させながら以蔵を見ると、耳の端を少し赤らめた幼馴染はソワソワと落ち着かぬ様子だった。
「なあ、龍馬さん……情人いうんは、あん人のことかえ」
「おん?」
以蔵がチラと目配せした先を見やり、龍馬は間が抜けた声を発した。まだ十間(約二十メートル)は先だが、チラチラ見える紺色の特殊な羽織には見覚えがある。中にいるはずの隠し刀の情人、福沢諭吉その人である。以蔵も彼との間のいざこざに巻き込まれていたので、判別がついたらしい。しかし気になるのは、中から聞こえる声が一体誰のものなのかという点だ。高く低く響く声はまだ続いており、一人か二人か判別はつきにくい。ただもし、中にいる人間が二人いるとすれば不穏な未来が待ち受けているのは容易に想像された。
「そうじゃ。以蔵、わかっちゅうな」
「薩摩の酒に、甘味もつけてもらう」
阿吽の呼吸で頷きあうと、二人はさも今帰るところですという風を装って諭吉の前へとかち合うように歩を進めた。一歩、二歩、自然にそっと。
「ほお、こりゃあ奇遇じゃなあ。元気じゃったか、先生」
弾丸のように飛び出すと、龍馬は先手を取った。
「あなたは!お久しぶりです。その節は、どうもお世話になりました」
真っ直ぐに歩きながらも、こちらはまるで眼中になったらしい。大袈裟なほどに驚く諭吉に微笑むと、龍馬は片手を振ってみせた。
「えい、えい。隠し刀が落ち込むんは、どうも見ておられんきのう。おお、そうじゃ。おまん、あいつに会いに来たのかえ」
「ええ」
「そいはおまんも運が悪いのう。あいつは丁度留守しちょる。わしらは今帰ってきたところじゃ」
すかさず続ける以蔵もそつがない。心底冷えた朋友の眼差しに、龍馬はどうも自分は上手く誤魔化せそうになかったらしいと米神を掻いた。
「……失礼ですが、あなたは?」
「こいは幼馴染の岡田以蔵っちゅうもんじゃ。以蔵、こちらは福沢諭吉。隠し刀の先生じゃ」
「確かに、先生、ではありますね。以蔵さん、教えてくださりありがとうございます。なら、少し待たせてもらうとしましょう」
では、と諭吉はさらりと流してこちらを追い越そうとする。慌てて舞い戻って前を塞ぐと、龍馬は懸命に何も知らぬ男を引き止めた。
「ここで会ったも何かの縁、ゆうじゃろ!そうじゃ、時間があるならわしらと飲まんかえ。おまんは異国の知識も豊富じゃち、隠し刀から聞いちょる。一度、じっくり話してみたいち思うてたがよ。なあ、以蔵」
「まあ、興味はある」
渋々といった様子ながらも合わせてくれる以蔵の心が嬉しい。龍馬が昔に戻ったような心地で胸を撫で下ろしたのも束の間、諭吉がすう、と目を細めた。
「どうも怪しいですね。何か私に隠し事ですか?失礼、通らせていただきます」
「いかんっ」
すっ、と気配が消え、ついでずん、とすり抜けていく。そうだ、隠し刀が言っていたではないか。諭吉は文人といえどもよく居合術を嗜んでいると。反射的に以蔵が刀を抜きそうになるのを制すると、龍馬は慌てて追い縋った。せめて長屋に辿り着く前に間に合えば、門前で大声で喚けば中にこの窮状は伝わるに違いない。
「待ちや!」
「待ちません」
抜きつ抜かれつ、悲しいことに長屋まではほんの少しの距離である。龍馬の願い空しく諭吉は問題の場所に辿り着き――看板を目にして大いに顔を顰めた。一巻の終わりだ。長屋の引き戸が、ガララッと勢いよく開かれた。
玄関前での出来事を知らぬ隠し刀は、今日は往来が随分騒がしいと思いながら、自分の放ったものを始末していた。先程まで高まっていた熱はすっかり冷え、飛沫同様に行為の虚しさを訴えている。自慰をすることの弊害を教えたのは研師であり、正確には夢中になりすぎれば体の毒になるという一般論だった。当時の隠し刀に、特別な相手などできる想定が一毫ほどもなかったからだろう。隠し刀も片割れも、自分たちが真っ当な人間らしい振る舞いをして一生を終えられるとは望んでもいなかった。
今の自分であれば、あの頃の自分にもう一つの弊害を教えてやることができる。深い仲になった人間がいる上で相手を求めて一人相撲をすると、飢えは何倍にも膨らむものだ、と。自分の獣欲は人並み程度だと自負していたし、十二分に自制できているつもりだが、それでもふとした時に抑えきれぬ欲望が溢れ出てしまうことがある。刀としてはひどい刃こぼれで、道具失格と言えよう。
だが、それで良いのだと諭吉は肯定してくれた。あなたは人なのだから、欲を持つのは当然でしょう?一見理性的な諭吉が、秘められた情熱や欲望を抱えていると知っているだけにその言葉は説得力があり、自分の心がひどく満たされたことを思い出す。心は温まったが、やはり諭吉に会いに行くのが一番だ、と下着を穿いたところでガララッと響いた音に体が固まった。
「失礼します!」
「おい、そん乱暴にせんでもえいじゃろ。隠し刀!」
「千客万来だな」
騒音と共に飛び込んできたのは諭吉と龍馬、そして後ろから面白くなさそうな顔をぶら下げた以蔵が続いている。半裸程度であれば見られたことがある面々なので着物がはだけている現状は許されるだろう。とはいえ問題は汚れ物と、
「……この匂い、間違いありませんね」
匂いだ。あちゃあ、と龍馬が顔をくしゃくしゃに歪める。大方彼が先に注意書きに気づいて、出くわした諭吉を止めようとした、という経緯だろう。自涜をした後すぐに雨戸を開ければ良かったが、今更霧散してくれはしない。黙って雨戸を開けてこもった空気を自由にすると、隠し刀は心持ち頬が熱くなるのを覚えた。なるほど、自分は恥ずかしいらしい。
「注意書きを表に出しておいたと思うが、見えなかったのか?」
「見えたから、ですよ。一体どういうことなんです」
「どういうも何も、一人でしていただけだぞ。……あー、龍馬たちは聞かなかったことにしてくれると、ありがたい」
かっかといきり立つ諭吉も気がかりだが、妙なものを見せてしまった友人たちにも気を配らねばならない。後日埋め合わせをする、と身振りで示すと、押し黙っていた以蔵がボソリと口を開いた。
「他の人間の気配はない。やき、心配すな」
「他の……?まさか諭吉、」
この期に及んであらぬ疑惑がかかっていたと気づき、さあっと血が冷える。状況からすれば確かに自分の行為は誤解を招きかねない。誰にも入られたくないからと用意周到にしたことが却って仇になるとはついぞ思わず、隠し刀は情人の顔を見やった。顔を赤らめているのは怒りからか、あるいは羞恥からか、場合によっては屈辱からかもしれない。自分が信頼されていなかったことは些か物悲しいが、今は誠意を尽くして説明するのが最優先だろう。話すべきことは話したとばかりに帰る龍馬と以蔵の背中に、隠し刀は頭を下げた。
「諭吉、これはなんだと思う」
汚れた布の塊を床から拾い、むわっと広がる匂いに隠し刀は顔を顰めた。自分が出したものとはいえ、気持ちが良いものではない。ましてや清潔感を第一とする諭吉には悍ましく映るだろう。だがこれが現実なのだ。自分たちは絵空事ではなく事実ここに存在するのだから、醜く生臭い。
「お前を想って慰めたんだ。初めてのことではない。……私を軽蔑するか?」
「しませんよ」
徐に手袋を脱ぐと、諭吉は恐々と布に触れた。もうすっかり温もりを失った情欲の死体は、存外情人のお気に召したらしい。冷静さを取り戻した瞳が揺れ、徐々に熱を持つ。諭吉も自慰をするのだろうか?うまく想像できなかったが、彼もまた人間で、隠し刀以上に人間なのだから大いにありうるだろう。可能であればその対象は自分であって欲しいと願いつつ、隠し刀は努めてしおらしい声を出した。
「確かに誤解を招くような状況を作ったのは認める。ただ、誰かに見られたらばお互い気まずいからな。諭吉もそうだろう?」
「あ、当たり前です」
「うん」
誤解が解けて何よりだ、と言いつつ用無しになった布を取り上げて塵箱に捨てる。くず寄せに売るにはみっともないので、後でこっそり燃やすとしよう。ついでに手を洗ってゆっくり戻る。情人の申し訳なさと欲の入り混じった視線が舐めるように背中を追いかけ、身体中を這い回る。愛する人をいたぶる人間の気持ちがこれまで理解できなかったが、なるほど少しはわからないでもない。
「諭吉」
逃げる隙を十分に与えてもここに止まるのは相手の意思で、意地だ。かちこちに固まった情人の手を取ると、隠し刀は自分の頬に押し当てた。すり、と緩やかに動いた手が頬を撫でて心地良い。
「こういう気持ちを人は悲しいだとか……ああ、『傷ついている』と言うんだろうな。諭吉、私は傷ついたよ」
「……勘違いしてしまい、申し訳ありません」
「ありがとう。なら、私を慰めてくれ。私にはお前だけだからな」
自分はうまく笑えただろうか?雨戸を閉めるべく離れても、哀れな罪人は逃げ出さない。わずかに残ったひとり遊びの残り香をパタパタと手で追いやると、隠し刀はゆるりと唇の端を持ち上げた。
蛇に睨まれた蛙のような心地だ。諭吉は自分の内側を暴いてため息をついた。情人に会うと決めた段階で肌を合わせることはうっすら予感もしていたし、期待もしていたはずだが思い描いたような流れとはまるで異なる展開を迎えている。それもこれも自分に落ち度がある――例え状況が混乱をもたらすものであっても、誰に非があるかは火を見るよりも明らかだった。無意識下で相手を信じなかったのは諭吉である。
理解されるよりも、ただ非難され罵倒される方がよほど気分が良い。だと言うのに隠し刀は慰めろと言っただけで、常と変わらず丁寧で優しかった。ただ静かに湯を支度して、下準備をして欲しいと頼んできたくらいである。その静けさが却って不気味だったが、彼の人となりを知る諭吉は隠し刀の行為に裏表がないことを理解していた。彼は詰ってさえくれないのだ。『傷ついた』、など取ってつけた状況報告のように乾いた台詞である。しかし彼が傷つかなければ、深く傷ついたのはこちらの方だろう。
黙って一人準備をする時よりも、汚れた湯をそっと外に捨てる時の方が一層惨めだった。自分が贖うべき罪は、こんなことでは洗い流されないという事実をまざまざと突きつけられるばかりで、なんの慰めにもならない。それでもさっと体を手拭いで拭いて、諭吉は己を奮い立たせた。
「……支度ができましたよ」
「おいで」
そっと声をかけると、隠し刀はこちらの裸を一顧だにせず手招きした。カルタのように床に並べた紙片を眺めていたらしい。自分が彼の中で今や紙切れ以下となった気がして苛立たしく、ついで切なさで身がはち切れそうになる。浴衣を肩につっかけたまま、殆ど裸でいるのは僅かなりとも熱を持ち始めたからだと言うのに、この朴念仁と来たらば憎らしいほど素っ気ない。
「そこじゃない」
「わ」
正面に座ろうとしたらば、するりと巻きついた腕が無理やり男の足の間に引き寄せる。思いがけずそば近くに相手の体温を感じ取り、カッと頭に血が上った。肩口に顔を寄せた隠し刀が、すんすんと匂いを嗅いでくるのだからやりきれない。下準備と言ってもただ中を綺麗にしただけに過ぎず、お世辞にも清潔からは程遠い。身を捩って逃げようとするも腕は大蛇のように巻きついてぎゅうぎゅうと締め付けてくるばかりだ。
「御覧、私が慰めるために使っていたものだ。よく写っているだろう?」
「あ」
ぐり、と顎を掴まれ見せつけられたのは、隠し刀が眺めていた紙片――諭吉が写った写真の数々だった。出先で、庭で、あるいはなんと言うこともない食事の最中などに撮影したもので、紙切れに残された過去は照れくさそうな表情を浮かべている。性的な匂いは一切なく、ただ日常だけが広がっていた。これのどこが彼の欲を掻き立てたと言うのだろう?悪戯に下腹を撫でる手指の一本一本をなぞると、耳元で隠し刀の低く湿った声が響いた。
「写真を撮った時のことを思い出していたら、段々その後何をしていたかまで思い出して切なくなった」
明確な意図を持った手が下腹を滑り、陰茎の根本近辺まで這う。後少し、と期待した辺りでヘソに舞い戻られ、諭吉はもどかしさから唇を歪めた。首筋を吸われ、乳首を軽く引っかかれた時には思わず唸り声が漏れ出る。顎の下にへばりついた手が、喉仏から腹の下まで一気に撫で下ろされたらば、腹の奥がきゅうと欲を訴えるものだからたまらない。
「参考までにお伺いします。……あなたの想像で、僕はどんな風にお相手を務めたんですか」
「聞きたいのか?」
「そりゃあ、気になります、ひゃあっ」
突然ぬるりとした冷たい何かが腹に塗られ、諭吉は色っぽさのかけらも無い声をあげてまじまじと確認した。ベタベタとした粘度の高い塊は、隠し刀が諭吉の体を撫でるうちに段々と温められて伸びてゆく。すべすべした様子に興味を惹かれて自分でも触れてみると、何かの油脂を思わせる感触だった。
「ヴァセリンというそうだ。ウィリアムにもらった」
何に使うのか、については体の中へと入り込む指が教えてくれた。通和散よりも滑りが良い。なるほど、英国人医師との因縁は有益であるらしかった。自然と膝を立てて脚をずらすと、隠し刀が褒めるように耳を噛む。にゅぷにゅぷにちゃにちゃと音が立ち、何度経験しても恥ずかしい。同時にたまらなく自分が興奮していることを諭吉はよくよく承知していた。後ろ手に相手の陰茎に触れれば、こちらも芯を持っていて安心する。絵姿でなくとも、自分は十分相手に通用しているのだ。
「僕もあなたに触りたいです」
「積極的だな」
想像よりも?流石に逐一尋ねるのは憚られて、諭吉は下唇を噛んで身を転じた。隠し刀に跨るように向き合えば、紙片は彼方に追いやられる。互いの視界がお互いだけで埋まるのは良い気分だった。少し苦しい体勢だが、片手で相手の肩を掴んで身を寄せ、熱を探るように相手の陰茎に触れる。欲を言えば自分のものと一緒に戯れたかったが、今の主導権は情人にあった。身を清めるために暴くよりももっと深くをあの長く、太い指が辿って行く。いつになく滑らかな指先は、先程同様に的確にこちらが触れて欲しい場所に触れるすんでのところで引き、あるいは掠めて去るのでジリジリと胸が焦がれてやまない。
「ねえ、もう」
「まだだ」
たまらず強請れば、ふっと表情を緩めて軽く口付けられた。隅々まで愛情が感じられると言うのに、どこか空々しい。痛みも苦しみも乱暴さもない、虚しい優しさだった。隠し刀のことだ、こんなにも興奮してくれているのだし、きっといつかは自分の願いを叶えてくれるだろう。だが、それがいつかまでかはわからない。もう随分長い時間が過ぎたような気がするし、そうでも無いような気もする。直接触られていないと言うのに、快感の波だけは小刻みに訪れて腰を揺らした。後ろだけの心地良さで達する悦楽を教えてくれたのは隠し刀だった。
「ふぅ、ぁ、も!いやれす、お願い、ねぇ、」
ちっとも満たされやしない。終いにはぐずぐずと泣きが入って、みっともないと分かりながらも諭吉は相手の肩口に齧り付いた。途端ずるりと指が引き抜かれ、ぽん、と体内に空洞が生まれる。いよいよか、と全身で震えるも一向に決定打が訪れる気配はない。何故?どうしてだろう。何か気に食わないとでも言うのか。いつだってこちらの願いは叶えてくれたし、そちらの望みも叶えてきた、そのはずだ。答えを求めて恐る恐る相手の顔を伺うと、隠し刀は凪いだ海のように穏やかな表情を浮かべていた。
「ああ、気づかなくて悪かった。私は先に出していたものだから」
「……怒っていますか?」
「怒る?」
くすくすと笑う男は無邪気そのもので、諭吉の尻をもにゅりと揉んだ。こんなにも焦らしておいて、気づかなかったと言うのは信じ難い。ベタつく体を相手に押し付けると、諭吉は小さくごめんなさい、と繰り返した。自分が悪かった、許してほしい、許されたいと強く願う。相手を思い遣っているのではなく、完全に自分本位の気持ちの押し付けだったが、情人は受け入れてくれるらしい。優しい男は笑ったままゆるりと床に倒れ、自然諭吉が覆い被さる形になる。
「怒る道理がないさ。だが、そんなに早く欲しいならそうだな……諭吉。自分で入れてみてくれないか?」
「な」
欲しかったものを間近に感じて頬を緩ませたのも束の間、隠し刀の放った甘い声にカチンと体が固まった。なるほどそうか、これが彼の狙いだった訳だ!しまったと思うももう遅い。相手が余裕たっぷりであり、こちらが切羽詰まっているのは事実で、今の体勢は騎乗位にうってつけだった。前々から隠し刀はこの体位を試してみたいと強請り、彼にしては珍しく胸に温め続けていた願いである。あくまでも相手と自分の身の安全を考慮し、跳ね除けてきたツケが回ってきたらしい。
「腹上死しても知りませんよ」
「はは」
楽しいな、と笑う隠し刀の顔に他人を垣間見て、諭吉は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
存外自分は片割れに負けぬ才覚があるらしい。思った以上にとんとん拍子に進み、隠し刀はにやけるのを止められなかった。本来、自分は抜刀研ぎで、力任せに思うがまま切って捨てるが性に合っている。他人の感情を操り、甚振り、振り回す技に感嘆すれども自分でやろうと考えたことはほぼない。必要最低限は嗜んでも、所詮その程度だ。
だが今回ばかりは、急場凌ぎの考えは見事に図に当たった。あれ程攻め立ててもうんと言わなかった諭吉が、今は恐る恐るといった様子で隠し刀の腹にまたがっている。中に収めるまでも随分手こずり、途中で泣きが入っていたが、優等生はこんなところでも優秀さを発揮できるのだろう。六、七割といったところか。躊躇って先に進めぬ情人に対して腰を突き上げ、下から軽く揺すると、ぎゅ、と相手の体に力が入るのがわかる。途端に中が締め上げられるのだから、咄嗟に奥歯を噛み締めて堪えた。自分がやり遂げたいのは娯楽であって、責苦ではない。舌打ちせずに相手の膝を手指で突くに留めた自分は、我ながら見上げたものだと思う。
「諭吉、息を吸え」
ゆっくりと。指が届く限りに震える脚をなぞってやれば、ひゅう、と体が揺れる。
「吐いて、私の顔を見てくれ。……私はどんな顔をしている?」
「嬉しそうです」
ようやっと目を合わせてくれた情人は、恨みがましげな台詞を吐く。怒りからか、この状況に対する興奮からなのか、目元が朱に縁取られて美しい。隠し刀は、理性の人と思われがちな諭吉の人間味に触れる度、密やかな愉悦を抱いていた。人を殺すほどに痛烈な感情!観音様も、一皮剥けばただの人だとせせら笑ったのは片割れだったか。暴露することに喜びを見出す相棒と異なり、隠し刀はただ自分一人の秘密にしたいと心の底から望んだ。
「諭吉は?ああ、影になってよく見えないな」
「わざとらしい」
チッ、と諭吉が舌打ちする。言い返す余裕ができたならば上出来だ。元来の負けん気が蘇ったようで、ふうっと諭吉が息を吐く。揺れるように、ゆっくりと、だが着実に体は沈み、包み込まれる熱に隠し刀も自然と頬が緩む。お互いの下生えが擦り合う頃、諭吉が目を真っ赤に染めてニヤリと笑った。努力した人間の額に汗が浮かんでいる。それを拭ってやれぬことが至極残念だった。
「僕はどんな顔をしていますか」
「お腹がいっぱいそうだ、んんっ」
「その逆です、よ!」
へたり込んだのも瞬きするほどで、自信がついたのか諭吉が猛然と馬を乗り回す。筋肉がついていなければこうも自由に動けないだろう。文字通り肉筒に愛撫され、隠し刀の口から高く低く声が漏れ出る。否応なしに乗り手は調子づき、好き勝手に上下しながら微かに喘ぐ。己の勘所はわざと外しているのだ。ささやかな意趣返しが愛しくて、隠し刀は頃合いを見計らって下からも突き上げた。
「あっ、ちょ、やめてくださいっ」
「私は一緒に楽しみたいんだ」
今は一人ではないのだから。暗に本物が一番だと滲ませれば、愉悦と共に情人がずるいずるいと喃語を吐く。それから先は戦いで、情けない声を上げながら相手を先に極めてやろうとがむしゃらに動いた。コツを知るのは隠し刀だが、体勢の優位は諭吉にある。両者拮抗する中で、小刻みに後ろだけの快感に痺れる情人が可愛くてならない。どうせ前から吐き出さなければわからないとでも思っているのだろう。
「ありがとう、諭吉」
「ふふ……気持ち、良い、れすかあ?」
「とても」
だから一度は譲ろうと太ももを叩くと、どういう訳だか搾り取るように締め付けが強くなる。このままでは中に出してしまう。名を呼んで止めにかかっても、法悦に歪んだ顔は応えずに容赦ない動きを続けた。全く負けん気にも程がある。ぎゅうぎゅうと全身で抱き締められて、胸がいっぱいになってしまうではないか。情人が欲しいまま貪る様は妖艶で、隠し刀はとうとう根を上げた。
「はあ、敵わないな」
「僕だって、あなたに気持ち良くなって欲しいですから……ぁっ?お゛ぉ、っ、!」
「私もだ」
自分の剛直が柔らかくなったのを良いことに、慎重に上半身を起こすと隠し刀は今度こそ諭吉の腰骨を掴んで押し込んだ。先ほどの騎乗位も良かったが、抱き抱えるような姿勢で間近に相手を感じる方が好きだな、と乱れ狂う情人の唇を吸う。この方が、もっとたくさん触れることができる。何事もやってみなければわからないものだ。
往来の騒がしさを上回る祭りが続く。腹上死は当面しそうにない。いやいやをしながら諭吉が熱を吐き出す。その背中を撫でて、隠し刀はするりと指で文字を書いた。微かな理性をかき集めた諭吉がふにゃりと顔から力を抜く。
本願成就。やはり本物に勝るものは、この世のどこにも存在しなかった。
〆.
あとがき>>
これまでいくつか話を書きながら、一体いつになったらこの二人はまたくっつくんだ(暗喩)?と悶々と悩んでいましたが、本願成就が無事できて良かったです。龍馬と以蔵の掛け合いは楽しいので、全部抱き合わせにしてしまってなんだか申し訳ない……でも楽しかったからね!
一方的に許されたいという願いは独りよがりで、それを叶えてやるのも優しさであり残酷で、叶えてやらないのも優しさであり残酷さでもあるのだと思います。どちらに転んでも一方通行なものは地獄でしかないので、ちゃんと対等にやり取りして欲しい。それはそれとして美味しいという気持ちもあり、矛盾を抱えながら昇華した結果が本作となります。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!