湯気
雨の日は憂鬱だ。雨は何よりも強い匂いを持って世界を押し包む。どんな香水をつけようとも、その芳香は雨粒で撃ち落とされてしまう。忘れることなど許さないと罵られているような気がして、ウィラ・ナイエルは念入りに香水を自分に振りかけた。まるで女神が注いだ聖水入れのような瓶は美しいが、中身はまだまだ完成には程遠い。
仕方なしに取り掛かっていた洗濯の支度を再開すると、ウィラはせっせと湯を沸かしているカヴィン・アユソに声かけに出かけた。男は火と肉と女性への配慮が出来て一人前なんだぜ、と言っていたことを思い出す。燻されたような彼の香りを思い出して、ウィラはどんな香水が出来上がるかしらと気分転換を始めた。
アメリカという、未知の大陸からやってきた彼は草原と酒、タバコの匂いがする。燻した薪の香りはウイスキーにも合うだろう。例えば男性の力強さや荒々しさを引き立てるムスクの中に燻すようなシダーウッドの香りを足す。わざとらしくひけらかされる危険さは、ペッパーで表現したらどうだろうか。彼の眼に過ぎる寂しさや、どこか遠くを思う気持ちは雨に濡れて湿った花そのものだ。ブルーベルも良いかもしれない。あの香りはウィラにどことなく憂鬱をもたらすのだ。
楽しい夢想は厨房で収束し、ウィラは洗濯物と睨めっこをするカヴィンに声をかけた。二つの大鍋が火の上で滑らかに踊り、一つは洗濯物で肥え太っている。もう片方はまだ空っぽのままで、ウィラのために残しておいてくれたことは確かだった。今日はカヴィンにウィリアム・エリス、ついでウィラが洗濯当番である。男女を分けたのはカヴィンなりの配慮だろう。洗濯物を突いて飛び出すものをたしなめると、くるりと振り返ったカヴィンはウィラの抱えた籠をちらりと見て大げさに肩をすくめてみせた。
「お嬢さん、そんなに多いんだったら言ってくれたら良かったのに。俺はいつでも手助けするぜ」
「これくらい、ちょうど良い運動よ。お湯の方はどう?」
「準備済みさ」
頷くと、ウィラは作り置きしておいた特製石鹸を籠から取り出してカヴィンに渡した。産業革命により、随分と市民の手に渡るようになってきた石鹸だが、やはり香りには難がある。そもそも汚れに応じて違うものを作るべきではないか?ウィラの出した結論は、せめて男性用と女性用で異なる香りの石鹸を作り出すことだった。ウィラ以外に香水をかける習慣を持つ人間はいないので、石鹸がその代わりにもなる。
カヴィンは受け取った石鹸に鼻を寄せ、んんと満足そうに目を閉じた。合格ということだろう。自分の洗濯物を手早く湯の中に投げ込むと、ウィラは椅子に腰掛けた。全てが煮え切るまでは、ただ火を見つめる。実家で使用人に囲まれていた頃は、どれほど家族に疎まれようとも自分の手で洗濯をすることはなかったから新鮮な気分だ。汚れた服から匂いが立ち上り、だんだんと薄れて行く時間は嫌いではない。それは忘却にも似ている。
「こうして火を見つめていると、部族の友人たちと輪になって座っていたことを思い出すよ」
立ち上る湯気を眺める中で、解けたような空気のカヴィンが静かに口を開いた。
「部族?」
「君たちヨーロッパの奴らは……おっと、人々は、だな。君たちが言うところのインディアンさ。インド人でもないのに変な話だよなあ。ともかく、アメリカ大陸には昔々の昔から住んでいた人々がいるんだ。俺は彼らに縄の使い方を習った」
「昨日、私を助けてくれた時のあなたはかっこよかったわね」
「ありがとう、レディ」
普段であれば、それに続けて軽薄なセリフが飛び出すのだが、今日のカヴィンは一味違うらしい。ただ記憶の中に沈み込むようにして鍋の中を棒でかき混ぜた。ウィラは自分の記憶が洗濯物と一緒に浮き沈みするような心地でぎゅっと目を閉じる。記憶とは実に厄介だ。どれだけ誤魔化そうとしても体の奥底から生き物の匂いが消えないように、忘れたいからと言って忘れられるものではない。忘れたと思えばひょんなことから飛び出してくることもままある。
このゲームが終われば、ウィラは完全なウィラ・ナイエルになることができる。全てを忘れて一からやり直すなど造作もないことだ。ここにはかつて、そうして忘れ去りたい人がいた。一体何を忘れ去ろうとしたものか。
「あなたはその時間が恋しいのね」
ウィラのセリフに、カヴィンははっとして顔を上げた。カヴィンの言葉の節々から、彼の過去への思いがにじみ出ている。恐らくは、失ってもう二度と取り戻せないものへの。
「そうだな。……とても良い時間だったよ」
どれほど恋しく愛しくとも、失った後は悲しみや寂しさを生むだけならば、いっそ忘れ去ってしまえば良いのだ。忘却の香水が完全なものとなった証には、勝利を助けてくれた皆に振りかけようとウィラはささやかな決意をした。楽しみも辛さも全部忘れて、洗い流してもう一度旅立とう。
鍋の火が落とされる。この火も全て忘れるのだ、とウィラは生まれ変わる洗濯物たちを取り出した。
〆.