◆相馬莞爾/異説・狂人日記にて使用(未使用・不使用含む)した回想一覧
信じるものを信じましょう。
起こったかもしれない・起こっていないかもしれない思い出
◆脳病院/脱走・火付け
脳病院で兎角頭を悩ませるのは、患者が鬱々とすることでも喚くことでもない。彼らはまだおとなしい方であるし、真実不幸なのだから手を差し伸べるに値する。その延長線上で暴れようとも、自分は甘んじて受け入れる所存だ。しかしながら、脱走を試み、あまつさえ世話になった脳病院を焼こうという輩はいただけない。発作的なものではなく、幾度も起こるのだから最早確信犯である。彼らは幸福になぞなりたくないのだし、赤であることを隠すべく症状を偽っている人間も入り混じっている。甚だ迷惑なことである。
幸福になれる権利を自ら放棄するものは哀れだ。彼らは唾棄すべき不幸者にしてならず者であり、救う価値などどこにもない。このようなことを考える自分は、医者としては間違っているのだろう。
◆兄/離れ(私宅監置)
自分には兄が居た。兄は優しい人で、母は自分よりも常に兄のことを気にかけていたと記憶している。兄の前にいる時のように、母と話すためには笑顔でいなさいと母は云う。兄は母と実家の離れにずっと二人で暮らしている。どうして自分とは暮らせないのか、父に頼んだことはあったかと思う。格子戸越しの会話は、母の顔がよく見えないので話しづらい。母と兄の楽しそうな会話が漏れ聞こえるのが切ないようであった。
自分に兄は居ない。莞爾(かんじ)と名付け、笑顔で居ることを願ったのは、偏に母の優しさである。
◆兄/名前
兄の名は■■と云う。とても大事な名なので、守り袋を渡す際に母は中に書いたのだと話していた。けい■、母は愛しそうにその名を呼ぶ。たまたま離れの前を通った父が血相を変えて怒鳴りつけたらば、兄は母共々引きつけを起こしたようだ。下女のサチが気を失った母を介抱する。■イチと話す際にはあんなにも穏やかな母が、どうして自分や父の前では狂乱するかわからない。慶一兄さんが羨ましい。自分も、母の不安を解消したらば離れの中に入ることが許されるだろうか。
自分に兄は居ない。守り袋の中には何か硬いものが入っているようだが、きっと母の歯だろう。母は自分を大事にするが故に、その一部を形見として餞別に呉れたのだ。これほど心強いことはない。
◆母/白い雪
母は雪が好きだった。雪がどんと降る田舎から嫁に来たのだと下女のサチから聞いている。雪が降ると気分が良く、自分の目を見て話してくれた。雪の何が良いのか、と聞けば、何もかも綺麗になるからだと云う。母が恐れるものも全て包み隠してくれるのだ。
幸にして、解けぬ白い雪を手に入れることができた。母は喜び、至極安らかな様子であった。もっと早くに出会っていれば、僕は兄より愛されただろう。
◆母/葬儀
25歳の夏に、下女のサチより電報が届いた。雪解けの頃に顔を見せたきり、もう行かぬと決めた実家だが、母が亡くなったとあれば行かねばなるまい。母の死因はようとして知れない。サチが云うには、母は安らかな様子であったと云う。重畳である。父と何を話したかは覚えていない。夜行を逃したので、無理矢理タクシーに乗って帰ったために高くついた。サチにも二度と会わぬだろう。指先に染み付いた抹香の臭いがなかなか落ちず、不快だった。
母は生きている。雪解けの頃に顔を見せて以来、サチはもちろん、実家とはなんの関わりもない。自分は喪服の一つも持っていないので、無論葬儀に行ったことはあるまい。
◆有島武郎/一房の葡萄
先日、新聞で有島武郎が自殺していた由、報道されていた。人気作家にも苦悩が大きいと哀れに思う。情婦と首を吊って心中したと云う。梅雨の遅くに見つかったため、至極腐った状態であったそうだ。かの人の「一房の葡萄」を、根岸氏の紹介を経て読んだことを思い出す。
あの報道以降、葡萄を見ると、吊る下がった死体が腐る様を連想するようになった。大理石のように白い手をした女が、無理矢理葡萄を押し付けてくる夢を何度も見てうなされる。いつしか手は母のそれになり、長い母の髪が天井からぶら下がるのだ。
母の髪が長かった試しはない。母の髪はいつも短く刈り込まれ、モガの先駆けであると後に知った。母は洒落者であったらしい。
◆妹尾十三/海
十三君の心地が穏やかになった頃、彼のたっての願いで海に出かけた。開放的な空気は人を明るくするのだろうと思う。暴れることも逃げ出すこともなく、火を放つなど無茶をしない十三君であれば問題はない。あのように一所に閉じこもっていれば、誰でも暗くなるのが道理だ。母の気持ちが晴れなかった原因の一つだろう。母は雪が見たいと云い、十三君は白波を美しいと喜ぶ。これを幸いと云わずしてなんと云おう。あいすくりんを買い、共に活動写真を観た日は生涯の思い出の一つである。
十三君は、このまま幸福になるはずであった。彼が脳病院に入院したのは無理からぬ事情であるが、至極残念である。
◆妹尾十三/周辺環境(私宅監置)
十三君の家に往診するのは、大変愉快な経験であった。妹尾家というのは大方の家よりも余程快適な私宅監置の環境が整っていた。ただ広いだけでなく、彼に住み心地の良い場所にしようという気配りが感じられた。何よりも、十三君の両親という人は真実十三君の身を案じていたのである。自身の実家を顧みるに、その差は歴然としている。
私宅監置は、環境さえ整っていればかくの如く理想の処置である。だが、この国で生まれた人間で叶えられる者はそう多くはあるまい。ならば物理的な環境に依らない最適な環境を整えてやることが、我々医師に託された使命の一つではなかろうか。
◆父/同物同治
自分には、生まれつき右足の小指がない。それが当たり前でないことは、父に隠すよう厳しく躾けられて初めて知った。欠損があるとは、それだけで人生に大きな欠落を生じているのだと云う。実際、体の力が入り切らず、体を動かす際には同窓生よりも自分は苦労しているようだった。のみならず、父の云う欠損は、人そのものの存在として問題があることを指摘している。医者として、この考え方には問題があると理解している。だが、どうしても自分には何かが不足しているという不安が常につきまとう。
相馬の家では、同物同治が奨励されていた。迷信めいた単純さで、悪い部分があれば、他者の同じ部分を食せば治療できるというものである。自分の右足の小指もまた治療されうるものなのだろうか?未だ試したことはない。
◆父/カエル
カエルを見ると、父の部屋にあった壜のことを思い出す。カエルのような頭をした胎児で、いつからあるのかはわからない。ただ、父に尋ねられない嫌な空気を感じた。医科大学で似たものを見かけた折、教授にあれは何かと質問したことは今だに覚えている。
無脳性という、奇形児の一種だそうだ。どこで父は手に入れたのだろう。
◆欠損/眼鏡
視力が悪いと自覚したのは、恥ずかしくも大学進学後のことである。教室の板書が読めず、同輩に指摘されて初めて手に負えぬものだと知った。眼鏡をして一番驚いたことは、自分が認識していたよりも世間には醜いものが多くあふれているという事実である。ぼやけた世界では、何もかもが雪に覆われたように美しい。勉学や仕事をする上では、眼鏡がないと不便だと承知しつつも、可能であるならば外したいと思っていた。
脳病院の事故により、眼鏡を外す公明正大な機会を得たのは慶事である。自分は羊水よりも柔らかな幻想を楽しむ許しを得た。不安は解消されたのである。
◆欠損/呼気 (不使用のためやや長文)
自分には右足の小指が生まれつきない。幼少期から父に叱咤され、自らが欠損しているという得体の知れぬ不安を抱いてきた。これは決定的に埋められざるものであり、真っ当な人間には知られてはならぬ秘事である。故に自分に近づく他人は誰もがこの秘密を暴きに来ているかのようで恐ろしくてならなかった。家族は良い、あれは自分の欠損の根源である。だが友は、となればどうにも最後の一線を越えるに勇気が要り、他の人間たちのような関係を築くことは不可能だった。
このような自分が誰かと交わるなど、到底考えられぬ恐ろしい出来事である。故に自分は雪よりも白く清らかで、そうあり続けている。だが新雪がいつまでも残らぬように、泥足で汚されることもまた運命かも知れない。
大学時代のことだ。上京したてで己の視力の悪さにさえ気づかず、矢鱈ごちゃごちゃとした巷間の様子に苦労する自分の先には、いつもKという同級生がいた。この男は生まれも育ちも帝都というだけあって洗練され、世馴れていたという記憶がある。他の同級生たちからも評判が良く、あらゆる面で面倒見がいいとほめそやされていた。彼は昔落馬した名残だとかで左足を引きずりがちに歩くのが特徴的で、そんな欠陥が自分には一層優しく見えた。
彼は親切だった。あの日までは。ある日、Kは十二階を観に行こうと自分を誘った。今更行くような場所でもなし、躊躇したのだがYもHも行くのだというものだからとうとう断ることもできずにずるずるとついていってしまった。十二階は相変わらず落ちぶれた様相で、かつて帝都第一の観光地とは思えぬ有様である。一階近隣に並んだ安飲み屋にHが消え、二階屋から振られた手についてYも消えてしまった。全く勝手なものだ。かくして自分は、勝手のわからぬ悪所でKについて行くより他になかったのである。
「何、心配はいらない」
私はよく知っているから、と不安がるこちらを見透かすようにしてKが手を握ってきた。どうにも気持ち悪い。だがここで振り払ったところで、自分が窮地に陥ることは目に見えている。母は笑顔であれと命じたが、自分がうまく笑えているのかさえよくわからなかった。吐き気で頭がぐらぐらし、どこかに連れ込まれて脂粉に囲まれるまで目を開くことも難しかった。
「万事うまく行くからね。君は初めてだろう」
良い人がいるんだよ、と自分を部屋に放り込んでKは無責任にも姿を消した。その時手に触れた畳を拭って、彼の手のひらの感触を取り去ろうとしたことはよく覚えている。所々敗れた畳のせいで、掌には傷がついてしまったがそれでも気持ちが悪い。血がで始めた頃になって、不意に手を掴まれて怖気を振るう。白い手が、女の白い手ががっちりと絡んで引き寄せてくるのだ。
「そんなに緊張しなくとも」
良いようにしてあげますよ、と女はあれこれ世話をしようとする。乱暴はいけない。されど女の手からは逃げたい。ゾッとするほどそば近く、耳元に吹きかけられた吐息が恐ろしい。手を突っぱねてなんとか転がりだすと、今度は足首を掴まれてしまった。多分に叫んだかと思う。嫌だ、嫌だ、
「なんだ、子供みたいに。君は全くウブなんだな」
這いずってたどり着いた襖がガラリと開いて、Kが立っていた。彼は随分とだらしない格好で、ここへ来てようやく自分が騙されたことを悟った。女が心得たように靴下を引っ張り始める。また叫び声を上げる自分に苦笑すると、Kは女にやめるようにと指示した。なんと親切で面倒見の良いことだろう。彼の悪行を棚に上げ、まるで蓮華の上に乗せられたように安堵した。
「知っているかい、なぶるという字は男と男の間に女がいるんだぜ。でも君は男と女の間にいる方が具合が良さそうだ」
足を引きずるような形のくせに、Kは存外力が強く、自分は再び引っ張り上げられて今度は布団の上に乗せられた。這い回る手、汗、耳元での囁き、何もかもがありうべからざる迷妄である。何をしたのか、何を言ったのかはあやふやで、思い返せばやはりあれは妄想なのだろう。あの日は暑かった。故にくだらぬことが頭の中に入り込んだに違いない。
後日、Kが女と心中したらしいことを聞いた。まるで二人して殴り合ったかのようにひどい有様であったらしい。面倒見の良い彼らしいことだ、と散々世話になった友人が話していた。自分も彼は親切であったと思う。失礼な悪夢は霧散し、自分は平穏な日常に戻ったのである。
●手土産/森永のビスケット缶
森永のビスケット詰め合わせ。16種類の大満足ボリュームで当時の高級菓子セットの一つだった。中でも莞爾おすすめのものがあると云う。
おすすめは、白い生姜糖のかかったビスケットである。ほんのりと苦く、だが甘い味わいは夢のように心を和らげるだろう。日々疲れる者には甘露に違いない。
ヒント:バルビツールは白く、ほんのりと苦いと云う。
●手土産/絵葉書
三枚組の絵葉書。十三をいつか連れて行きたいと思った、『空に近い場所』や『旅』を基準に選んだものであるらしい。
一枚目は、浅草十二階の展望台で、双眼鏡を覗く三人の男性が描かれている。地上の猥雑な空気が流れて清々しい様子だ。
二枚目は、男性のうち一人が押絵を抱いている。いつの間にか男性は一人姿を消し、ゆったりと残りの二人で語らっているようだ。外の景色でなしに、何気ない日常を描いた一枚が混じっているのは不可思議である。
三枚目は、汽車に乗った男性が押絵を相席の男性に見せている。何やら楽しそうな旅情を感じさせ、やかんを持った車掌が茶はいらないかと呼びかける様子も描かれている。今度こそ押絵をはっきりと確認することができるが、仲睦まじく並ぶ男女の男性は十二階で姿を消した男性に至極似ていた。
不思議な話もあるものだね、お話のようで面白そうだから買ってみたのだが、君なりに感じたものを書いて寄越して欲しい、何暇つぶしだよ暇つぶし、と莞爾は至ってにこやかである。ただ、こんな風にできたらばさぞかし――と云う呟きは小さく窄んだ。不審な点は見受けられない。
ヒント:後年、横溝正史により書かれた小説「押絵と旅する男」を参照されたい。
●服装/守り袋
古びた布で作られた守り袋。莞爾の首から緩やかにかけられ、宣教師の十字架にも似た近づきにくい空気を醸している。
よくよく見ると、布は古い赤子のお包みに似た素材でできている。莞爾のものだろうか。守り袋の隅に小さな文字が書かれているのが確認できるかもしれない。
注意を凝らして見れば、『慶一』と書かれている。莞爾のものではないらしい。一体『慶一』とは何者だろうか。