まだ、君に夢中。/#1.パンと水
参ったな。放り投げられた難題に対し、真っ先にクリーチャーが思い浮かべたのは自分の不運さを呪う言葉だった。こんな状況を打開できる人間がいるだろうか?
エマ・ウッズにピアソンさんならできるなの、と言いくるめられて易々と乗ったことが間違いだ。どうしたって自分はあの小さい少女に弱い。いや、今はもう十分大きく育った一人の淑女と見るべきだろう。どうしても彼女に、かつての幼い面影をダブらせてしまうのはクリーチャーの浅はかさだった。
自分が荘園に来た理由は、伴侶を見つけることでも格好つけることでも、はたまた慈善家ぶることではなく、ただ賞金を得ることだと言うのに、つい余計な真似をしてしまう。時に感情が先走ると手がつけられず、カッとなって暴力沙汰になったこともしばしばだ。おかげで他の人間からも不審な目でみられることがまあある。ゲームに支障が出ないと良いのだがと心配したところでもう、全ては後の祭りだ。
両手で捧げ持つ盆に載っているのは焼きたてのパンと、水をたっぷり注いだ水差し、それにグラスが二つ。本当はバターやジャムだって載せたかったが、延々迷った挙句に取りやめにした。それはもう少し先で良い。今はこの簡単な二つの食べ物だけで良い。かの救世主さえも最低限塩漬けの魚とパン、それにワインを口にしたと言うのだからとんでもない粗食だ。
永遠とも思われるほどに長い廊下を曲がれば、比較的新しい部屋が顔を覗かせる。荘園に人間がやってくると同時に一夜にして増やされた場所だ。あまりにも悪魔的な所業に、クリーチャーたちは盛んに交わしていた荘園の主人に関する憶測を飛ばすことをピタリとやめた。知り過ぎたならば、恐らく自分たちが抱える目的は絶対に達成しえないだろう。
手前から二番目の部屋の前に立つと、こほんと咳払いをする。この時点で部屋の中にいるであろう相手が耳をそばだてていることは了承済みだ。いわば先触れのようなものである。十秒数えた後、控えめに扉をノックをする。一度、二度。一度、二度。反応は墓場よりも冷たく静かなもので、クリーチャーは肩をすくめて片手をポケットに入れた。取り出したのはピン状の長い針金が二つばかりで、この程度であれば片手でも十分用が足りる。ドアノブに触れ、硬く微動だにしないことを確認すると、クリーチャーはそのまま針金をするりと鍵穴に差し込んだ。クリーチャーにとって、荘園の館はどこも無用心で実に心が広い。部屋の中の人間が動く気配がする。あと少し。
「入るぞ」
「入るな」
念のためにと声をかけて足を踏み入れるのと、強い拒絶の声が返ってくるのはほぼ同時だった。物が投げられる可能性も考えたが、現状相手は会話ができる状態であるらしい。例え投げられたとしても自分ならば避けられる自信があった。ゆっくりとひらけた視界を見渡すと、荒みきった声とは反対に部屋は綺麗なもので、まるで下ろしたてのシャツのようにパリッとしている。
ベッドの上で腕を組んで座っていた部屋の主人――ナワーブはひどく不機嫌そうに唇を歪めた。館に来た初日にしてゲームに参加し、惨敗して帰って来た青年としては十分理解しうる状況だろうか。
否、今日は彼が館にやってきてから二日目の朝である。そして、食糧事情が十分すぎるほど豊かな場所に来て、始終飲まず食わずで過ごすなどあってはいけない事態だった。
将来どう考えても素晴らしい戦力になると期待されるにも関わらず、ゲーム以降ナワーブが飲まず食わずで過ごしている――そんな報告がなされたのは、クリーチャーが上機嫌に朝食の支度をしていた時だった。昨日は朝も早くから新入り四人に挨拶をし、歓迎会は七日後にでもと決めてそれきり興味を失っていた相手を気にかけよと言われても、勝手にするが良いというのがクリーチャーの考えである。
その自分がエミリー・ダイアーに発破をかけられ、フレディ・ライリーに嫌味を言われ、結局エマの言葉で重い腰を上げたのは本当に馬鹿げている。相手は子供じゃないんだ、食べるように監督する必要がどこにある?ましてや自分は成り行き上料理を行なっているが断じて根っからの料理人などではない。
朝食が終わったら昼食のフィッシュ・アンド・チップスの下ごしらえをしようと思っていたというのに、とんだ時間の無駄だ。ベッドの上に佇むナワーブの目は、クリーチャーの訪問が全く無意味だと物語っていた。お互い気持ちは通じ合っているならば何より、とクリーチャーは手近な椅子を引っ張ってベッドの前に座った。
「サベダー君。朝ごはんでも食べないか」
「出て行け」
「今日の午後は試合だろう。へばられたら困る」
「……俺はそんなにやわじゃない」
「ふうん?」
確かにそうだろうな、とクリーチャーは頷きながらもナワーブの腕がかすかに震えていることに目を留めた。この青年はゲームの最中に、よりにもよって暗号機を解読することが出来なかったそうである。最初はエミリーの指導の下で解読を進めていたのだが、二割を超えたあたりで急に手元がおろそかになった。
「戦争に関するようなことをブツブツ言っていた気がしたけれど、よく聞き取れなかったわ」
ナワーブ・サベダーは傭兵だ。しかもかなりの荒っぽい戦場を駆け巡ったらしいことだけは荘園の主人から知らされている。幸いにしてクリーチャーは兵役に就くことなく過ごせているが、楽しいばかりではなかったことくらい、容易に想像がついた。
戦場とは、人が人を殺すためだけに殺す場所だ。何かもっと大きな目的によって動かされる駒たちに、好き嫌いに基づく選択肢などあるはずもない。人の心など置いてきぼりにするべき場所で、砂つぶのように散りばめられた人という存在もまたただの手段に成り下がるのだろう。
うっすらと汗を浮かべるナワーブの顔立ちは幼く、東洋人であるという事実を差し引いてもクリーチャーよりもだいぶ年下のように推測される。なるほど、子供に毛の生えたような人間が、戦場で情緒を破綻させたという筋書きはもっともらしかった。
おそらく暗号機は、彼に戦場での何かを呼び覚まさせたのだ。そしてその何かは、戦場からも擬似的な戦場であるゲームからも遠ざかっても尚、彼にまとわりついている。街中で見かけた、退役軍人たちの様子を思い出してクリーチャーは暗澹たる気持ちになった。些細な物音でビクつき、威嚇するように怒鳴り、目は虚ろでブツブツとわけの分からぬことを口走る、日常から切り離されてそのままとなった姿は、自分もなりうると思えばぶわりと鳥肌が立つ。単純に手足を失って物乞いをしている方がずっとまともだ。
だから?もう良いではないか。自分は約束した通りに手を伸ばしはした。エマに十分弁解もできる。好きにしろ、と突き放すのは簡単であり道理だった。何よりナワーブ自身が救いを求めていない。迷える子羊を救うのは宗教家のなすべきことで、完全にお門違いである。もしかしたら、いつか荘園に宗教家がやってくるかもしれないとクリーチャーは想像して苦笑した。可能性は高い。
苛ついた眼差しがクリーチャーを突き刺し、何ももたらさず通り抜けていった。多分、彼はこの程度の威嚇で十分クリーチャーを追い払えると思っているのだろう。実際、だからこそクリーチャーにお鉢が回ってきたのである。
エミリーやフレディのような中産階級のお上品な人間や、か弱いエマに新人で夢想家のカート・フランク(元軍人らしい、本当だろうか?)、空気を読みそうにないウィリアム・エリスや胡散臭いセルヴェ・ル・ロイではきっと、この時点で彼を放逐する。せざるを得ない。面倒なことだから臭いものに臭いものを押し付けるようにしてクリーチャーを選び出した、のだとすればあまりにも残酷だ。
クリーチャーは慈善家ということになっている。だが、本当に優しいかどうか、誰にでも等しく接するかは別問題だ。とは言えそういう建前でいるのだし、そろそろ点数稼ぎも必要だった。何より、恐ろしくないと言えば嘘になるが、この程度の威嚇はため息すら湧かない。
確かに、自分は殺すために殺す場面は未経験だが、別の目的のために殺されるかもしれない場所には身を置いていた。だって、絶対に欲しいものがあるのだとお互いが知っていればそうなるだろう?げにこの世の富は有限だ。欲しければ掴め、死ぬほどに欲しがれ。
「なら、毒が入っているかもしれない食事くらいは平気なんだろうなあ。何せ傭兵君は体が丈夫だ」
「安い挑発には乗らない」
「安くはないさ。君はいつでも私を殺せる、そうだろう?」
危険を承知でわざわざ来ているのだと盆をベッドの上に置く。盆をひっくり返さないよう、慎重に避けるナワーブの自然な仕草に、クリーチャーは彼の育ちの良さを垣間見た思いで軽く目を見張った。自分の経験上、敵意を持つ対象が近寄れば跳ね除けるものだし、盆はとっくのとうに床に落ちていただろう。ううと犬のように低く唸るナワーブに、クリーチャーは手に取るようにとこの取引を説明した。
「君が水を入れて、飲むグラスを選ぶ。先に私が飲もう。飲むかどうかは、それから判断すると良い。パンも同じだ。君が割って、好きな方を取って私に渡せ。先に食べてやる」
「『慈善家』はそこまでやるものなのか?」
「慈善じゃないさ、打算だよ。私は賞金が欲しいんだ。勝つための戦力は必要だろう?それに――君の経験は頼もしいからな」
「は、」
鼻で笑うナワーブの腕は震えず、堂々としたものだった。顔つきもどことなくふてぶてしいものに変わったらしい。それで良い。それでこそ良い駒だ。クリーチャーがゆるく微笑むと、ナワーブは腕を伸ばして水差しからグラスへ水を注いだ。
「そう言うあんたは勝算があるんだろうな」
「あるとも。君を入れてだがね」
半ば嘘であり、真実である。ナワーブは他のメンバー同様に足手まといにさえなければ、なんだって使いようがあるのだ。命はどれも等しく一つの命で、それ以上でもそれ以下でもない。喉を通ったこのパンと水は目的のための餌だ、命を正しく使うための補給だ。
だが、一口食べた青年の顔にクリーチャーは心のどこかがほどけたような音を聞いた気がして首を振った。情に流されてはこの先やっていけまい。いつ捨石にするとも知らない相手で、向こうが自分を同じように扱う場面は大いに存在しうる。
「……美味しい」
「そうか?なら、焼いた甲斐があったな」
「え、」
クリーチャーの狙い通りにぽかんとしたナワーブの顔は、まさに幼さを前面に表した素の表情だった。
「言っておくが、嘘じゃない。さて、気になるならベーコンとスクランブルエッグも確かめてみるか?解毒薬が入っているかもしれないぞ」
きら、と小さな輝きがナワーブの中に灯る。ああこの青年にはまだ柔らかな部分があるのだ。だからこそ傷つく。本当の意味での慈善家になりきれていない自分は彼を救いはしないが、もし救えたならばもっと外ではうまくやれるかもしれない。それに、とクリーチャーは立ち上がる自分にゆっくりとついてくる青年を思った。手懐けたならば自分の取り分だって増やせるかもしれない。
***
戦場から逃げ出したはずだというのに、そこは戦場だった。もちろん危ない突拍子もない仕事であることは理解していたのだが、ナワーブは荘園に来て自分の心をえぐるようなものに再会するとは全く思っていなかった。田舎の、だだっ広いどこまでも続くような領地。金持ちの酔狂で作られた数々の『遊び場』、そこで鬼――ハンターから逃げ切れたならば、逃げ切り続けられたならば法外な賞金が与えられる。傭兵という、自分の身一つを売り物にしてきたナワーブにしてみれば鼻歌をしながらでもやれそうな話だった。金額は自分が一生働き続けても手に入るかわからないもので、富に溺れていると人は判断力を失うのだと思わせるに十分である。
そうして意気揚々と出かけたならば、まずは仲間として紹介された面々にひどく落胆させられた。競争相手ではなく仲間という時点で嫌な予感がする。彼らの肩書きは医師、弁護士、庭師、よくわからないスポーツ競技の選手(ラグビーだと言っていたが、ナワーブが聞きかじったものと様子がやや異なる)、冒険家(本よりもその腕の筋肉の方が役立ちそうだ)、魔術師、そして――『慈善家』。名前からして胡散臭いというのに、この最後のひょろりとした男は言動も職業名にそぐわなかった。経歴に関する彼の話は大凡嘘であることはすぐさま知れているし、他の人間も嘘だと知った上で接し、どことなく遠ざけているらしい。
ナワーブに言わせれば、クリーチャーに限らず、そもそもどいつもこいつも足手まといで役立たずだ!今更知らされた事実は、この中から四人一組でチームを組んでゲームに興じ、勝利することが条件であるという残酷な規則だった。
しかし、一応はこの遊戯を公平にさせようという考えが荘園の主人にはあるらしい。ゲームには始まりがあるように終わりも存在する。終了条件は、暗号機を手分けして解読し、暗号を入力してゲートを開き、そこから逃げ出すというもの。あるいは――ロケットチェアにくくりつけられて強制的に館に連れ戻されるかだ。参加者全員がどちらかに片付くまでゲームは続く。
ゲームの流れを一通り説明された際、解読が得意なフレディはひどく疑り深い顔つきでナワーブに、自分の解読が邪魔されないように気をつけてくれと偉そうに言ったものだ。暗号機?そんなもの、自分にだってどうにかなるだろう。戦場で見かけたものほど複雑な作りでもなさそうだ。第一、自分は解読よりもハンターを撹乱する役が向いているだろう。解読に関しては、結局はなから手助けする気の無いフレディと違い、初めての試合ではエミリーが指南役を担った。
「そう、時々音がブレたら調整して――上手いわ。あなた、器用なのね」
「どうも」
カチャカチャとキーボードを弄り、ローターやプラグボードを調整する。実際に暗号機を調べて見れば、見かけ倒しの簡易な代物だった。戦場で使用されるものであればより複雑で、エミリーのような門外漢が一昼夜かけても解読などできないだろう。要するにこれは玩具なのだ。自分でも十分操れる、と判断した矢先、アンテナが揺れて甲高い音が響いた。
「っ」
「あっ」
動揺した瞬間、バチンと音がして調整に失敗する。弾けた火花に慌てて飛びすさったナワーブの頬には、だらりと冷や汗が垂れ始めていた。次々と脳裏を過去が走り周って揺らす。通信音、裏切り、敵の存在、降り注ぐ銃弾、上陸してきた仲間を片端から撃ち殺して波打際は瞬く間に朱に染まる。夜の闇も自分を守ってはくれず、塹壕の中で死んだ友を布団がわりにして眠った。自分の抱いた誇りあるグルカのナイフは味方に向けられるべきではなかった、そのはずなのに実際には何が起きただろう?現実は子供の頃に思い描いた地獄よりも悲惨だ。耳元では戦闘機の唸り声まで響いてナワーブを苛む。ここは戦場ではない、ただの遊びだ。ゲームに集中しなければと暗号機に目を向けるも、ナワーブの両腕はだらりと降ろされたままで微動だにしない。心臓がどくどくと高鳴り、困惑した様子のエミリーが何かを口走っている。
「いやだ、」
あんな場所に帰るのはもういやだ、殺すことが当たり前の場所で、機械的に殺されるような場所が嫌いだ。その向こうに仲間がいたと知った日はこの世の終焉であり、絶望でもある。過去と現在が入り混じった世界で棒立ちになるナワーブの背筋が悪寒に震え、顔を上げれば赤い光が障害物の向こう側にちらついた。ハッとしたエミリーが走り出す。
その後は無我夢中で逃げ惑ったような気がしたけれども、いつまでも悪夢を歩かされているような心地でどうにも記憶が朧だった。殴られ、血まみれになりながら走り、唸り、風のように飛んだが最終的には椅子に縛り付けられた。ぐるぐると巻かれたいばらは玩具とは思えないほどに生々しく、その棘はナワーブの皮膚を食い破って血の雫が転々と溢れる。館に戻った後、何事もない様子の体がかえって空恐ろしかった。
戦場から遠く離れたはずが、あの場所での全ての経験がまるで影のようにナワーブの体に染み付いて離れない。死は、吐息が頬に吹き付けられるようにそば近くに忍び寄っていた。ほんの些細なことが自分に向けられた刺客のように見えてくる。世界中が敵だらけで、ナワーブは自分一人でこの身を守らねばならないのだ。一体何が安全だろう?
喉がひりつくほどに渇いたが、毒が入っているかもしれないと頭の中で警鐘が鳴ってグラスを床に落とした。歓迎の呼び声が盛んに聞こえる。腹がシクシクと空腹で傷んだ。食事も、できたてのホヤホヤと湯気を立てたものが長い食卓にずらりと豪勢に並べられていたが、フォークを手に取ることさえせずにナワーブは席を立った。ウィリアムがナワーブの分を食べていいかと大声で呼びかけてきたことに対し、鷹揚に頷けたのは合格点だろう。
冷静になれ、とナワーブは掌に伝わるぬらぬらとした熱をズボンで拭った。荘園にいる人間たちは、いざとなればいつだって好きな時に息の根を止められそうな連中ばかりだ。だがそれが何になる?突然の卑劣な裏切りによって自分が陥れられはしないという保証はどこにもない。賞金を得るというどう猛な欲望を前にして、人は十分狂いうる。
冷や汗は脂汗に変わり、治らぬままにどうにか落ち着こうと自室に引きこもった。忘れ去りたい喧騒が耳元で咆哮を上げ、ナワーブの体を揺さぶる。再び自分は悲劇を目の当たりにするだろうか。ゆるゆるとゲームの記憶が呼び覚まされ、ナワーブはベッドの上でぎゅっと膝を掴んだ。今日、エミリーがハンターに滅多打ちにされたのは、あの時ナワーブに過去の悪夢が訪れたからに他ならない。ボロ切れのようになったはずの彼女が、ナワーブの掌の傷と同様に、館に戻った頃にはケロリとしていて驚いたが、起こってしまった出来事は確かにナワーブを侵食していた。
フレディの前歯は折れたし、一人健気に立ち回っていたエマは失血死させられた。なんて残酷!こちらが攻撃する武器を持たない分、戦場よりもよほど残虐であるようにさえ感じられる。荘園の主人はつくづく趣味が悪い。
仲間の損害についてを足手まといどもめ、と吐き捨てれば気が楽だろうに、残念ながらナワーブはこの悲劇の発端の一人であると客観的に理解できてしまう。足手まといは自分だ。そして、荘園は安全な場所などではありえない。否、荘園という別世界に来たということ自体が自分の妄想かもしれない。
まだ、あのツー、ツー、という通信音が耳鳴りのように木霊し、心臓をぐらつかせる。時間だけはどっどと過ぎ去り、ナワーブはただ同じ姿勢で蹲るばかりだ。お前は逃げられないんだよ。見知らぬ誰かがあざ笑う声がした。
とは言え、ナワーブの恐怖に(そうだ、笑ってしまうくらいに恐ろしい!)侵されていない理性の部分では、いくら自分が飢えや渇きに強いとしても限界があると冷静に理解していた。だと言うのに心臓はバクバクと酸素を失いかけた魚のように跳ねて体を押さえつける。一体どうすれば安全な場所へと逃げ出せるだろう?頼るべき相手も、糸口も見つからないまま苛立っていると、静かな咳払いが部屋の外で響いた。いつでも動き出せるように起き上がり、じっと様子を伺う。
咳払いのしわがれ具合から、相手がクリーチャーだとナワーブは当たりをつけた。お節介なエミリーではなく、よりにもよって自分が一番信用ならないと考える男がどうしてまた訪れるのか。鍵がかかっているのだ、どうせ入れまい――呼吸を一つした瞬間、カチリと鍵の開く音がした。
「入るぞ」
「入るな」
咄嗟に物を投げつけようとする意思を押しとどめ、言葉で牽制するも、まるで柳が風にそよぐかの如く相手には伝わらなかった。クリーチャーからは昨日、自己紹介の際に観たビクビクとした動作は鳴りを潜め、ひどく落ち着いて冷めた目をしている。手に捧げ持つ盆の上には、水差しにグラス、そしてパン。久方ぶりに嗅ぐ暖かな香りに胃が刺激される。この男はこれからどうしようと言うのだ?なるほど、『慈善家』だからかとナワーブは鼻白んだ。面倒な偽善者め。さっさと消え失せるがいい。
「サベダー君。朝ごはんでも食べないか」
だが、ナワーブの人を殺さんばかりの視線をいとも簡単にいなした男の提案は、拍子抜けするほどに簡単で論理的で情のない取引だった。普通はもっと柔らかく当たるものではないのか?優しさならば跳ね除けられた。嘘や欺瞞ならばせせら笑って拒むこともできる。一方でクリーチャーが提示したものは全て非情で事実であり、救いでさえなかった。だから、良かったのだ。
空きっ腹に安全なパンと水はよくしみた。思えば、胃袋を空にした後では重たいものなど食べつけないのである。素朴で暖かなパンは焼きたてで、皮がパリパリとしていた。ギーがあったら塗りたくるのに、と故郷が懐かしく思い出される。バターとは似て非なる濃厚なクリームは、母が考え出した独自の味付けがされていて、米と炊けば何度でもお代わりしたくなるものだった。再びあの味に近づくためにも、自分はここで勝利を掴まねば、と段々と理性がナワーブの頭の八割方を占めてゆく。食べ進むごとに通信音が遠ざかり、にわかに日々の生活が立ち上がる。今は?朝だ。カーテンから溢れる空気は晴れて澄み渡り、いつの間にか夜を越えていたことを知る。
嘘をつかなかった男は、他にもご馳走があるのだと自然に誘いかけ、ナワーブはすっかり元気となった胃袋と共に頷いた。そう、朝は始まったばかりなのだった。
***
「何作ってるの?」
「ポン・デ・ケイジョだ」
「ポン……?」
黙々と作業をするクリーチャーの肩に、当たり前のようにして背後から顎が載せられる。振り向いて確かめるでもなく、間抜けな発音を繰り返したのはナワーブだ。すっかり慣れてしまった重みに、一体どうしてこうなったのだろうとクリーチャーは首を傾げた。
「ポン・デ・ケイジョ。南米のチーズパンらしい。カヴィンが旅行記から持ってきたんだ」
母国を懐かしんだカヴィン・アユソは、大陸全土にわたって情報を求めたらしい。人々の生活を知るのにうってつけなのは私的な旅行記で、求めればすかさず与えてくれた荘園の主人はつくづく恐ろしい程にツテがある。いっそ賞金よりもその縁故を繋いでもらった方がやりやすいかもしれない、と考えながらもクリーチャーは生地をちぎって小さな団子をこねあげた。
一つ、二つ、三つと転がした丸は、フードを被ったナワーブやイライ・クラークの後頭部にも似ている。普段パン作りに利用する小麦粉ではなく、キャッサバという変わった芋から作られた粉であるためか、手に触れる感触は新鮮なものだった。チーズに卵に牛乳に、と中身は至って素朴なもので、口にしたことがなくとも味わいはおおよそ想像できる。多分、カヴィンも納得するものができるだろう。
肩が軽くなったと思うと、手を洗ってきたらしいナワーブが戻ってきて横に並ぶ。クリーチャーが黙ってボウルを指差せば、優しいパートナーはぱっと顔を輝かせてその手に生地を載せた。先日はそうしてロールパンを並んで作ったのだが、真心のお手伝いが引き起こした惨事がチラリと頭に浮かぶ。
本当は甘いピーナッツクリームやミルククリーム、チョコレートクリームなどを入れて違いを楽しむ軽食になるはずだったのだが、三分の一程は菓子からトッピングへと変化した。元傭兵の握力によりガチガチに硬くなってしまったパンは誰にも噛めない代物となり、クリーチャーが砕いてスープの上にばらまいたのだ。余った分はパン粉に変えて、夕食のミートクロケットへと華麗なる転身を遂げたのは、まあもっけの幸いと言えよう。
「あんまり固く丸めないようにな。この前みたいにカチカチになったら、噛めなくなるぞ」
「じゃあ、ピアソンさんの手を握るくらいなら大丈夫?」
す、とさりげない仕草でナワーブの手がクリーチャーの腕を掴む。しっかりと、だが相手を配慮した力の入れ具合だ。感情が高ぶるあまり、エマに振るったクリーチャーの暴力以上にナワーブの怪力は恐ろしい。
なるほど体のつくりがまるで違うのだ、とクリーチャーは嵐のような夜にしみじみと思ったものだ。組み敷かれる際に、こんな良い男が自分を壊れ物を扱いでもするかのように気を使っているからこそ、今の今まで自分は腹上死しないで済んでいる。神に感謝することがあるならば、まず一つ目はそれだとクリーチャーは感じてさえいた。ナワーブの触れ方は好きだ、熱くて、いつまでも触れていたくなる。
「これくらいならちょうどいい」
「……最初の頃はちょっと触るだけで真っ赤になったのになあ。慣れてきたよね」
ふ、と揺らぐようなセリフにクリーチャーの鼓膜が震える。全くこの男は!同じことをそっくりそのままナワーブに返してやりたかったが、もっとうまいやり口を考えるべくクリーチャーはちらっと流し目をくれて押し黙った。
二人がモチモチとした生地をこねて並べると、可愛い団子たちが一個大隊を築き上げた。あとはオーブンに入れ、焼き上がりを待つばかり。ほんの少しの時間でできるとはなんともお手軽で良い。一区切りついたところで手を洗うと、クリーチャーは同じく手を洗い終えたナワーブの手をそっと握ってやった。優しく、だが強く。当たり前のような顔をして握る手がどれほど勇気をかき集めた結果なのか、この男はまだ知らない。
「本当にそう思うか?」
ナワーブの頬が紅潮する。相手の指の間に自分の指を差し込んで絡めとり、こちらの心臓に押し当てるとクリーチャーはじ、とナワーブの目を見た。途端、ぐいと引き寄せられて流れるようにして口づけられる。鮮やかで無駄のない動きは熟練の傭兵としての経験を存分に活用したものだ。本来使うべき用途を間違っているのではないかとも思うが、自分にとっても満足のいく行為なので良しとしよう。何秒か数えるのも惜しいほどに数度唇を重ねると、ナワーブはようやっと虜を解放した。
「誘い上手にも程があるでしょ」
「君ほどじゃないさ。先に仕掛けたのは君だ」
「……うーん」
負けた、と訳のわからないことを呟いてナワーブが首筋に顔を埋めてくる。その頭を撫でてやって、クリーチャーは無情にも鳴ったタイマーの音と共に突き放した。慣れた?そうかもしれない。惜しいと思っても、また触れ合えると信じられることを、なんと呼ぶかはクリーチャーにとって未知の世界だった。
例えば愛だとか、恋だとか、そんな言葉では部分的には合っているものの、不十分であるように感じられる。先日ナワーブに、この気持ちを彼の母国ではなんと呼ぶのかと尋ねたならばニヤリと笑って耳慣れぬ音を発した
「メロ ハート サダイン サマオ」
「メロ……?ハートって、心臓のことか?」
「ううん、俺の国では『手』の意味だよ」
いつかわかるから大丈夫、と言ったきりで未だに謎は謎のままだ。果たしてその言葉に見合う関係を築き続けられるだろうか。微かに捕まえた音を耳の中で反芻させながら、クリーチャーは慎重にオーブンの扉を開けた。
「わあ」
「良さそうだな」
不満そうなナワーブも、オーブンから取り出した太陽の色に瞬く間に魅了される。予想した通りにチーズの香りが力強く立って、じわりと唾液が口の中に溜まった。皿の上に載せ、食堂に持っていけば大歓声が迎え入れてくれるだろう。と、横合いから手が伸びてきて速やかに一つを拐かして弾けた。
「あっつ!」
「つまみ食いした罰だ。……それで、毒味の感想は?」
火中の栗とまでは行かないが、流石にまだ手を出すには早いことくらいわかりそうなものを、我慢できずに動いたナワーブにクリーチャーはやれやれと苦笑した。稚気にあふれた彼の様子を知るのは恐らく自分だけだろう。荘園に来た当初の荒涼とした様子からはまるで想像もつかない、さながら溶けたバターのようにまろやかだ。
同じように、とクリーチャーは自分の心の移り変わりを思って遠くを見る目つきをした。自分もまたあの頃からは変わりつつある。変わった、と言い切るにはまだもう少しの勇気が必要だった。忠実な毒味係はクリーチャーの問いかけにペロリと赤くなった指先を舐めると、ぐ、と親指を立てて見せた。
「最高に美味しい。また作ってね」
「君が言うなら間違いないな」
くだらないやりとりをしながら時の扉をくぐり抜け、食堂へとたどり着く。踏み入れた食堂では既にレモン水が配られ、示し合わせたように手の空いた面々が集まっていた。セルヴェとブリッジをしていたカートがいそいそと大テーブルに戻ったのは、恐らく旗色が悪い状況なのだろう。清廉潔白、健全健康を謳うかのような元軍人は存外賭け事がお好みだが、相手は一流の魔術師にして詐欺師でもある。大方甘い言葉に誘われたのだ、とクリーチャーは微笑ましく思った。
命を正しく使うための餌が、今日も賑々しく仲間に振りまかれる。さながら神からマナをもらったヘブライ人のように食事を受け入れる様は、クリーチャーが誰かの支えになっているという証左だった。果たして、外の世界に舞い戻っても魔法はかかったままだろうか。馬車がかぼちゃに戻るような間抜けで惨めな気分は避けたい。否、自分一人では――雑音のような思考を退けるべくチーズの旨味を噛み締め、ほのかな果実の香りが爽やかさを引き立たせるレモン水で喉を潤す。と、ああ美味しいなあとしみじみ味わうクリーチャーの耳に、ウィラ・ナイエルの上品な声が滑り込んだ。
「ヘレナ。パンで思い出したのだけれども、世界で一番の贅沢な食事は何かご存知?」
「謎かけね」
応じるヘレナ・アダムスは堂々としたもので、小さなポン・デ・ケイジョをさらに小さくちぎって丁寧に口に入れた。ゲームの最中迷うことなく動く盲目の少女は、世界が滅んだとしても微動だにしないかの如く冷静である。贅沢な食事。一体なんだろうか。それがあれば誰をも魅了せずにはいられない、魔性の食べ物があるならば是非とも知りたい。
クリーチャーが知る限り、贅沢とは珍味であるとか、滅多に手に入らない極上の食材を利用した最高級の腕前で作り出される一品だ。具体的な料理を思い浮かべられないのは、乏しい経験と知識の限界だった。美味しい料理を作るには、美味しいものを食べなければならない。
いつぞやとんでもない味音痴、もとい味覚障害の持ち主と出会ったことがあるが、クリーチャーは半ば呆れ、半ば羨ましくなったものだ。知らなければ、人は求めないものである。知恵の木の実を食べてしまったら最後、欲望は限りなく膨張する。食事に限らず、求めるものは果てしなく続く。地位に名誉に物に、そして何よりも人の心を。手に入れようとしてすり抜けていったものたちを思い出し、クリーチャーはキュッと目を細めた。
「……土?」
「捻り過ぎじゃないかなあ、ヘレナ。ねね、それって僕が普段食べているものの中にあったりする?」
「流石ね、トレイシー。ええ、多分誰でも食べたことがあるんじゃないかしら」
「へへん」
胸を反らすと、トレイシー・レズニックは卓上からメープルシロップをとって遠慮なくポン・デ・ケイジョにかけた。つくづく思うのだが、クリーチャーが見る限りトレイシーは毎度舌がしびれるほどに甘いものを口にしているような気がする。機械人形を始めとした様々な発明には頭を使うと言うから、わかりやすいエネルギーを欲しているのだろうか。肉ももっと食べさせなければゲームの最中にバテるかもしれない。トレイシーの体の細さを改めて実感し、クリーチャーは戦力の危機を覚えた。今日の夕飯には肉料理を出そうと心に決める傍らで、いくつもの食べ物があげられる。
愛のこもった家庭料理(所謂おふくろの味的なものだ)、新鮮な水、年に一度しか食べられない季節のものたち。だがどれも正解には程遠い。ようよう答えが出尽くした頃、淡々と却下したウィラはワインを飲んで啓示を授けた。
「パンと水よ。本当かどうかはわからないのだけれどもね」
「えー、どうしてそれが贅沢なのさ?僕たち、毎日食べているじゃないか。母親の手料理、とかの方が余程わかりやすいよ」
「だからよ。ね、そうでしょうウィラ」
「ええ。母親がいるといないとに関わらずね」
応じるウィラの目に寂しさが過るのは、母親との間に何事かあることを示していた。パンと水。最初に、自分がナワーブに与えたものでもある。あの時のナワーブの表情の変化は思い返せば思い返すほどにクリーチャーの胸をくすぐってやまない。もはや捨石と呼ぶには余りにも自分は情を持ち過ぎて、今では両手で抱えても溢れかえってしまう。
確か、人は助けられた相手よりも助けた相手に愛着を覚えるのだという。ならばクリーチャーは世話をしたナワーブに自分自身の意義をも感じているのかもしれなかった。ナワーブは?彼は一体何を思うだろう。その答えを聞きたいような、聞きたくないような臆病な心を持て余し、クリーチャーは乱暴に小さなパンを引きちぎった。
「世界にどれほど食べ物があると思う?どんなものが食べられるとしても、あえて誰でも食べられる、食べているパンと水を選ぶの。それが最高の贅沢だって、どこかの国王様が仰ったそうよ。でもね、私はこうも思うわ」
「なあに」
すっかり話に引き込まれた様子でトレイシーが続きをねだる。見れば、他にも何人かが耳を傾けている様子だった。ハンターたちとの読み合いに頭を使うせいか、暗号機を解読するためなのか、謎かけには皆興味があるらしい。
「好きな誰かと一緒に食べられるなら、当たり前のものも世界一贅沢で豪華じゃないかしら。――カヴィン、あなたのことじゃないわよ」
「残念。いつでも相席を務めるから、気が変わったら呼んでくれ」
すかさず入り込んだ名うての女たらしが場をまぜっ返す。好きな誰かと。確かに、そんな『誰か』がいる時点で瞬く間に場は温もりを増すかもしれない。慈善家として上手く泳いでいた頃、上流階級の食卓に呼ばれた時を思い出してクリーチャーはしかめ面をした。見たことのない金のかかった料理たちが並んでいたのだが、不思議なことに一つも覚えていなければ一つも美味しいとは思えなかった。今、自分で作ったささやかなポン・デ・ケイジョの方が余程美味しい。
「ウィラの言う通りだ」
「ん?」
最後の一つを口に放り込んで、ナワーブが満足げなため息を漏らした。自分の手元に残っていた数個を渡せば、嬉しそうに欠食児童が受け取る。どう計算してもはちきれる程に腹に詰め込んでいるはずだというのに、何度繰り返しても毎度の食事でお代わりするのだから燃費の悪さが懸念された。太っている様子もないので、どこか宙に消えている可能性さえある。
噂では、ハンターの中には体が宇宙と繋がっている生き物がいるらしい。宇宙とはまた壮大な概念で、誰もが終わりを知ることのない広さだろう。荘園の主人でなければ到底養えまい。外の世界でも同じだとすれば、日々食費とにらめっこをして青ざめること間違いなしだ。
「ピアソンさんと食べるなら、俺は毒でも美味しく食べられるよ」
「ばか」
世界一だ、と囁くナワーブの口元に、先ほどの行為を思い出す自分もばかだ。頬が熱くなっていることを自覚すると、クリーチャーは参ったな、と心の中で呟いた。
この気持ちが何よりも毒で、解毒薬がないことを自分はとうに知っている。その癖何度でもおかわりがしたくなる中毒性があるのだ。
*補足:文中のナワーブのセリフは、ネパール語です。HTML表示にするにあたり不都合があったため、カタカナで表記しましたが、実際の紙の本では原語で表記していました。
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