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まだ、君に夢中。/#2.焦げた肉


 天は全てを知っている。何しろ全てが視えているのだ。よって、天眼とは遥か未来を見通せる絶対の能力と言って良い。見る見ないを選ばずして視えてしまう自分の因果な運命を、イライは悟りきった心地で受け止めていた。人の数だけ運命はその道を増やし、交わりあって崩壊する。行先は誰も同じく、沈黙の死だ。終末点に到るまでのどこかを自分は見せられているのだが、だからと言って何ができるでもない。
 ただ、いつか起きる事実たちが眼前に広がっているばかりだ。うっかりと行動したところで自分に降りかかるのは面倒ごとだとよくよくわかっている上に、良いことづくめの顛末以外も含めたあれこれを覗いてしまうことはひどく疲れてしまう。言わばイライにとって世界は雑音で満ち満ちており、自然人を避けるに至った。それでも自分が生きるにはもっともらしい顔つきをして占い師をする以外になく、結果待ち受けていたのはわかりきった生活苦である。何よりも自分にとって運命は苦い。誰が苦難の道とわかりきって歩み続けよう?
 現在、運命に従い行き着いた先は、荘園だった。幸いにして人は少なく、視えることによって救えるものもある、外界の規律がいささか捻じ曲がった、イライにとっては新たな境地である。人の運命は変えうる。変わりうる。なんという奇跡!何より、視界に入る人物の数が程よい。到着した当初は自分の運命もようやく打開されるのだと胸躍らせたものだ。
 しかし人生には瑕疵がつきもの、良いことがあれば裏返しもある。視る対象が限られてしまう分だけ、詳細さを増す弊害は完全に計算外だった。イライは全て知っている。  昨晩、ノートン・キャンベルが磁石の手入れ中に手を滑らせ、鉢植えに磁力をつけてしまった。本人は気付かず磁石を回収したが、後に庭の手入れにやってきたエマが剪定バサミを吸い寄せられて鉢植えを割る。何が置きたかわからない彼女を手伝うのはマイク・モートンで、更なる混迷をもたらすことになる――だがその繋がりを知るのはイライだけだ。多くの人間は蝶の羽ばたきを知りもしない。
 この程度ならばまだ良い。問題はさらに襞の奥深くに潜んだ関係性だ。目隠し布を押さえて、イライは今日も視てしまったと自分の抑えの効かなさを呪った。イライは全て知っている。視界の端に映る二人の人物が、隠しおおせているつもりであってもほぼ周囲にバレている程に親密で、突き進められるだけ既に関係を深めていることを。うっかり頭の中を覗いてしまえば、とりわけ開けっぴろげな年若い方にとんでもない情景を見せつけられる事故も起こりうる。
 目を逸らすと、イライは目の前のご馳走に集中することにした。夕食のテーマはアイリッシュだとかで、名前もそのままのアイリッシュ・シチューとアイリッシュ・シェパーズパイである。羊肉にたくさんのジャガイモが怒涛の勢いで押し寄せ、胃袋へと豪快に流し込む手伝いをするのはギネスビールという組み合わせだ。驚くべきことに、今日の料理はマーサ・べハムフィールとクリーチャーとの共同制作物である。イライの記憶では、マーサはおよそ家庭的な婦女の類いからはだいぶ遠ざかっている。ただ、素朴に肉を煮込み、味付けをするというのはむしろ軍人向きの料理なのかも知れない。
 何にせよ、一口頬張れば草原で元気よく暮らしていた羊の息遣いを感じることができる料理は最高の出来栄えだった。ごろごろとした羊肉に、どろりと溶けた玉ねぎの甘みが絡んでやみつきになる。きっと作り手に対し、年若い彼も賞賛したことだろう。別に賞賛を求めるでもない作り手は、静かにはにかんでまた作ろうと心に決めるのだ。
 そうしてもそもそと食べながら、イライは再び自分の思考が片隅でじゃれ合う二人に向いていることに気づいて苦笑した。愛を歌う鳥たちは、どうにも周囲に余波を与えるものらしい。彼らはどうしてこんな顛末になっただろうか。イライが荘園に到着した折には、まだ二人の運命は完全に交わり合うには至らず、ただ同じ空間にあるのみだったように記憶している。二人は互いに冷たく素っ気なく、しかし柔らかかった。奇妙な話だ。そう、こんな風だった。


***


 まだ、イライが荘園に来たばかりのことだ。
「あー、焦がしちまったのか。もったいねえな」
「グリルの使い方はややこしいんだよ」
 廊下を通る最中、プン、と焦げ付くような匂いをたどるようにして振り向くと、イライは元凶が台所にあることを把握した。盛大に落胆する声の主はウィリアムで、気を利かせたフクロウを通じて見やれば、失敗作の生みの親はナワーブらしい。今日の夕飯はロースト料理を作るのだと二人が簡単そうに請け合っていたことを思い出す。時刻は午後の四時、巻き返しは十分図れるだろうが、失われた材料は嘆かわしい。何をするでもなし、折角なのでイライは『視る』ことにした。まぶたの裏に、ナワーブの未来の風景が浮かびあがってくる。これは台所か、とイライは舞台を分析した。
『何作ってるの?』
『ポン・デ・ケイジョだ』
将来のナワーブの隣には、なぜだか仲睦まじそうな様子のクリーチャーが並んでいた。思いもよらないことに、この二人の運命はいつしか交錯するらしい。現状では柔らかく、甘ささえ漂う空気はどこにも見当たらず、イライは一体どんな事故があるのやらと首を傾げた。未来絵図に添えられた、もちもちしたパンらしきものは美味しそうだなと楽しみに思う。天眼を閉じて現実に戻ると、焦げた肉を前にして男二人が頭を抱えていた。ウンウン唸った挙句、打開策をひねり出したのはウィリアムだった。
「仕方ないな。ピアソンさんにどうしたら良いか聞いてみようぜ」
「なんであの人に?」
「え、だっていっつも飯作ってるのあの人だぜ。グリルはトレイシーに聞けば良いけどよ、料理はピアソンさんに聞いた方が早い」
ウィリアムの言う通りだ。イライが荘園に来てから、もっとも多く食べた手料理はクリーチャーの手によるものだろう。一人に負荷をかけすぎてはいけない、という考えと単純に料理は気散じと交流の口実にするには丁度良いという事実に基づき、一応今日のように当番制がとなっているが、美味しいものには誰だって口にしたい。結果、どういうわけか最も料理上手の男の手による皿の数々が供されるのであった。味付けは程よく、イライの口にも合っている。場合によっては、荘園を去る際に口惜しく思うようになるかもしれない代物だった。
 だが、もう一方の料理人には別の考えがあるらしい。ナワーブはローストを通り越して焦げ付いた肉を長いフォークでつつくと鼻を鳴らした。
「……うーん」
「なんだよ、あの人のこと苦手なのか?」
「違う」
「だったら聞いても良いだろ……ははーん、わかったぞ。お前この前見捨てられたの、まだ根に持ってるんだろ」
返事はない。無言は答えのようなものだ。見捨てられた、とはまた不穏な言葉である。ウィリアムの得意げな顔に興味をそそられ、イライは自分の記憶を漁って自分も参加した試合を思い出した。
 ちょうど一昨日の試合で、場所は赤の教会、見通しも良く、隠れるにはちょっとしたコツを要求される場所である。参加者は、イライにナワーブ、ヘレナにそしてクリーチャーというそれぞれの役割がわかりやすい組み合わせだった。
イライが真っ先に見た瞬間に浮かび上がったハンターの姿は結魂者で、横に長い姿は彼女のみなので間違いようがない。自分の立ち位置が遠いことに安堵したのもつかの間、身の回りにはいないと信号を送ったと同時にゴーンと鈍い鐘の音が鳴り響く。こんなに早くに、と見れば殴られたのはヘレナである。まだ他の二人をフクロウで確認するのが精一杯で、なるほど彼女は自分から最も遠く――ハンターのそばにいたのだった。
 信号を送って、ナワーブがヘレナの近くへと移動し、すみやかに支援できるようにしながら暗号機の解読に入る。自分もすぐそばの暗号機に取り掛かりながら、イライはふと解読が不得手なナワーブと、やたらと部品をちょろまかして全体に調整を発生させるクリーチャーは相性が悪いのではないかと不吉な予感に震えた。否、まだだ。二人は以前から何度も共に出かけていたし、勝ったり負けたりと勝敗の結果がどちらかに偏ることもなかった。
 ヘレナを一度フクロウで守ると、あとは側近くに行ったらしいナワーブに全てをゆだねる。ヘレナは見えないながらも(もっとも彼女の説明によれば周囲の様子は僅かながらに浮かび上がるらしい)上手く逃げているようだが、やはり結魂者の蜘蛛糸は厄介で、既に浴びせられかけていることが悲痛な信号で知れた。仲間の傷つく姿は何度も視て、観て、見たが、なかなか慣れることは難しい。疼く胸を抱えてここで一台、少し離れた場所で一台暗号機が仕上がる。ヘレナが地面に倒れ伏したとほぼ同時だった。
 次の暗号機に移る際、遠目に見えたクリーチャーに手を振る。あちらはそちらへ、自分はこちらへ。新しいものに手をつけると、イライは四割方進んだあたりでヘレナが助け出され、続けて響いた音でナワーブが肉壁をしたことを確認した。ナワーブの痛みは遅れてやってくる。果たしてそれまでにヘレナは逃げきれるだろうか。
 通信音が段々と高鳴り、一台片付こうかと言うところでヘレナが再び捕まる。結局、彼女は解読せずに終わるのだ。もう、全て視えている。殴られたナワーブを手当するべく、イライは彼の位置を探りながら移動を始めた。一方ではクリーチャーもヘレナを助けに行こうと動いているようだ。終わりを語る術はなく、ただ各人がやれることをやるのみだろう。無事に出会えたナワーブは、負った怪我のためだけでなく、どこか意気消沈している様子だった。
「駄目か」
試合の結果についてを言っているのだ、とイライは軽く目を見開いた。まだゲームは序盤の段階だ。粘り強い戦いを展開することに定評がある元傭兵が音を上げるにはいささか早い。クリーチャーがヘレナを救い出し、そして――イライは視ることを止めた。時に未来のために生きるために、知らなくて良いこともある。だからこそパンドラの箱は最後まで開け切られずにいるのだ。
「珍しいですね、君が弱音を吐くなんて」
「……下手を打ったんだ」
ヘレナの目が見えないことを忘れて、貼り付いて走る間隔を調整しきれず、結果彼女は蜘蛛糸に絡め取られてしまったのだという。ナワーブの肩にも糸くずがついており、イライでは治療不可能な微細な怪我が残っていた。立ち上がったナワーブの足元には点々と血の跡が垂れる。さて立て直そうと声かけをしたところで、ドン、と地面が揺れた。
『私から離れて!』
叫ぶような信号と共にヘレナが倒れる。クリーチャーはどうしたろう。ヘレナの杖突きで示された結魂者の位置から離れた暗号機へと向かいながら、イライはフクロウを飛ばした。どうやら結魂者の追跡をかいくぐったクリーチャーは道具箱を漁っているらしい。一旦放置しても良さそうだと判断し、イライはゲームを続けた。ヘレナは、そう間を置かずに遥か空へと飛ばされていった。
 いつも通りの風景だ、誰かが倒れ、誰かが出しぬき、誰かが外へ出る、もしくは皆それぞれ飛ばされる。単純化され、凝縮された人生が展開されていた。世界とは一つの舞台、男も女も老いも若きも皆役者だ、というような言葉を吐いたのは誰だったろう?
「……来てるなあ」
「ですね」
震える手を叱咤しながら慎重に手を動かしていたナワーブが、ちらりと目をある方角へと向ける。ぞわりと感じる寒気は、紛れもなくハンターがこちら側を観ていることを示していた。今度は自分の番だろう。手負いのナワーブに任せるよりもより良い方法だ。動こうとした矢先、スッとナワーブが暗号機から離れた。
「お前の方が解読が早い。俺には中治りがついてる」
「ナワーブ、」
「任せたぞ」
そしてイライは視て、全ての出来事を目の当たりにした。解読が全て終わった後、運悪く肘当てを使い果たしたナワーブが糸に包まれ転がされたことを、イライが追い詰められて仕方なく一人ゲートから出たことを。そしてクリーチャーは、ナワーブの近くにあったハッチから出て行ったのだ。一か八かの賭けに出れば助けて二人でゲートから出ることができたかもしれない。
 しかし非常に危険な賭けであり、どちらかと言えば共倒れになる可能性の方が高い。引き分けに終わることと、一人逃げた上での敗北は大きく異なる。ただ、ナワーブは叫んでいた。すぐそばに近づいたクリーチャーが息をひそめたことに気づいて、助けて欲しいと。それに対してクリーチャーが返したのは沈黙、である。勝負は引き分けに終わった。
 一通り過去を振り返り終わり、イライの気持ちが現在へと舞い戻ると、ウィリアムの張りのある声が響いた。
「別に、あの人の肩を持つ、ってわけじゃないけどさ。ピアソンさん、怪我してたんだろ?」
そう、あの時クリーチャーは怪我をしていた。中治りをつけておらず、かつ道具箱から出てきたものは地図だったことをもイライは把握している。試合後、ナワーブの非難がこもった目をいなしたクリーチャーは特に弁明も弁解もせず、今に至る。彼にしてみれば数多くのゲームから学んだ適切な判断なのだろう。説明すればいくらかナワーブの気持ちが和らぐことは容易に想像つくが、クリーチャーにその気はないらしかった。結果見捨てられた、ナワーブがそう感じたのは無理からぬ状況と言える。
「……わかってるよ、それくらい。俺を助けてたらハッチは開かなかったし、あの人の足じゃ俺を守りきれなかった。仕方がないんだけどさ」
「で、拗ねてるわけか」
「ちがっ」
どう見積もっても拗ねた子供のように呟いたナワーブの勢いを止めたのは、他ならぬクリーチャーその人だった。あまりの間の悪さにナワーブの顔が思いきりしかめられる。焦げた匂いが少し離れたイライにまで漂って来たほどだ、近くを通った他の人間が気づくことは大いにあり得る。ニヤついたウィリアムの様子からして、こちらは少し前からクリーチャーの姿が見えていたのだろう。洗濯をしていたのか、黒いエプロンをかけた姿の男は勝手知ったる台所に入ってグリルの中を覗き、ふむと頷いた。
「あんた、こそこそ聞いてたのかよ」
「偶然耳に入っただけだ。それよりも肉を助けてやらないとな」
助ける、という単語にナワーブが如実にびくりと反応する。クリーチャーが木のボードの上にフォークでトントンと肉を載せると、焦げた塊が三つほどゴロンと横たわった。見るも無残な料理もどきは、おそらくローストビーフになるはずだったものだ。
 続いて手を洗い、壁からナイフを外すと、クリーチャーはしげしげと肉を検分し――スーッと切り分ける。手元を覗き込んできたウィリアムに、クリーチャーが少し離れるよう示す様は、さながら料理中の母親がまとわりつく子供を追い払うかのようだ。
「焦げた部分を除けば、食べられる部分は多そうだ。サベダー君、手伝ってくれないか?ウィリアムはホースラディッシュを擦っててくれ。そこの棚に……違う、左だ。そうそう。ちゃんと手は洗ってくれよ」
「へいへい」
「……俺は何をすれば良い」
むすりとしたナワーブが、未だ納得がいかない様子でクリーチャーの横に並ぶ。流石に黙ったまま突っ立っているつもりはないらしい。相変わらず敵意を向けられる方の男はどこ吹く風で、壁掛けからナイフを取り出してナワーブに渡した。
「焦げた部分を切り取って、こっちに寄せてくれ」
「わかった」
肉がどんどんと小さくなる。フクロウを介して眺めるのも疲れる、と思いながらもイライは目を離せずにいた。駄目になった部分を削ぎ落とした肉はあまりにも美味しそうで、イライの口の中にジワリと唾液がたまる。クリーチャーとナワーブが救い出したそれを、更に薄く切ってゆけば、まるで焦げなど最初からなかったかのように思われる変貌を遂げた。次に、クリーチャーは手際よくウィリアムを操作してソースも作り始める。サワークリームにマヨネーズ、塩に砂糖にレモン汁、混ぜ合わせるだけならば誰にだってできる作業だが、課題をこなすウィリアムは上機嫌そのものである。一方ナワーブはローストポテトとサラダを作るべく、クリーチャーの指揮の下野菜を切り始めていた。ストンストンと落ちてゆく音が心地いい。流石はナイフの扱には定評のある元グルカ兵、ナイフ捌きはクリーチャーよりも一層手慣れており鋭敏である。
「君に言っておきたいことがある」
「あのゲームの話なら聞かないよ」
「厳密には違うな。次、私とゲームに出て、同じ立場に立ったら粘らずすぐに逃げてくれ。私は君以上に保たない」
静かで、残酷な正しい答えだった。なるほど、説明を求めないのであれば必要なのは今後に対するちょっとした指導だ。ナワーブがゆっくりと目を閉じる。ショリショリと玉ねぎがスライスされて、まな板を使わずに掌の上で綺麗にみじん切りとなった。
「……わかってる」
「本当に?」
「しつこいな、あんた。俺がそんなに優しいとでも思ってるわけ?それともあんたを大事だと思ってるって?勘違いするなよ『ピアソンさん』、俺にとってあんたなんかどうでも良いんだ」
「おいナワーブ、言い過ぎだぞ」
「安心したよ」
あの空気を読めないウィリアムさえ慌て出す、ピリピリとした緊張感の漂うナワーブの発言に対し、クリーチャーの返答は実に柔らかだった。微笑んでさえいるような気がする。イライの目に、未来が交錯した。
「君は頑張りすぎるから、それくらいでちょうど良い。ウィリアム、パンを貸してくれ。肉とチーズを挟むぞ」
「頑張りすぎたのはピアソンさんでしょ」
真っ赤になったナワーブが、乱雑に野菜の水気を切る。トマトが潰れるからやめて欲しいとイライは心の底から願った。
「俺がヘレナを守ろうと思ったのに、横から来てさ。そりゃあんたは器用だけど、すぐに殴られたし、殴られたら痛いって、あんたが誰よりもわかってるくせに」
「だから、私を守ろうとしてくれたんだな」
ゲームの最中、イライが視た中で見えていないものがあった。無言で動いていたナワーブとクリーチャーが一体どんな心算でいたかだなんて、あえて見る余地はない。
 まさかナワーブが見捨てられたことではなく、そもそもそんな事態に陥らせてしまった、守れなかった自分に苛立ちもやもやとしたものを抱えていたとは!更にはナワーブの気持ちを汲んで一手先を動いていたクリーチャーのなんともよく『視えて』いた冴えに、イライは感嘆を漏らした。グレイビーソースとホースラディッシュソース、ローストビーフにチーズをてんこ盛りにぎゅっと挟んだサンドウィッチがアルミホイルに次々と包まれてオーブンに行く。先は地獄か天国か。
「ありがとう」
「あんたのためじゃない」
「そうだなあ」
「本当だって!」
「じゃあ、次はないわけだ。安心したよ」
「……あんたって本当にイライラする」
ウィリアムを完全に場外に締め出して、二人はわあわあと騒いでいる。これまで口をまともに、柔らかくきかなかったのは黙っていても通じていた、手探りのような関係が進んでいたからなのかもしれない。かくて彼らは正面切ってぶつかった、以降は音を介して伝え合うだろう。イライが人心地をついた後で食べたローストビーフサンドウィッチは肉汁がチーズの旨味に絡み合ってえも言われぬ美味だった。


***


 そんな思い出は大分前に過ぎ去った話だ。今も、彼らは音を介して伝え合うけれども、それ以上に空気で伝え合うことが一層上手くなったような気がする。阿吽の呼吸で作られたアイルランド料理の数々は実に濃厚で身も心も温まる一皿たちだ。とは言え、後でナワーブには一言口頭で注意しておこう。自分は視たくて視ている訳ではないが、どうしても目に入れば視えてしまうものもあるのだ。

 君の妄想が溢れかえっているのでいかがわしいものはこっそりどうぞ、と伝える最善の表現を考えて、イライは真っ黒なビールを胃に流し込んだ。


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