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まだ、君に夢中。/#3.花とオリーブ


 花の香りは、どうして微かなのだろう。どんなにかぐわしいものであっても、風に吹かれればかき消されてしまう。たった一輪で咲いているのであれば尚更だ。僅かな香りは記憶に留まるか止まらないか、怪しくなる頃にはもうとっくのとうに過ぎ去っている。なんの未練もなくさっぱりとした尻尾を捕まえるべく、ぐるぐる回っているのだとしたらばそれが自分だ、とウィラは溜息を零した。忘れたい人間が、忘れ去られるものをとどめる努力をするとは、矛盾しているのではないだろうか?
「ドライフラワーに霜が降りてたよ」
「あら。もうそんな頃なのね」
蒸留機を調整していた手を止めると、ウィラは温室の戸口に立つ青年を見遣った。目よりも先に、ウィラの鼻は既に誰が近づいているかを把握している。花のようにも人にも特有の匂いというものがあり、訪問者であるナワーブもまた、東の国から入り混じった見知らぬ世界を教えてくれた。いくら風呂に入ったとしても、ウィラの嗅覚から逃れることはできない。おそらく自分は目隠しをされても誰が誰だか当てることができるだろう。時折、世界には匂いが溢れすぎてうんざりしてしまうが、なかなか便利な能力には違いなかった。
 エーデルワイスのドライフラワーを手にしたナワーブは、存外丁寧な仕草で花束を作業台の端に置いた。霜が手の温もりで溶け、小さな水溜りを作り出す。華奢な花束と無骨な青年の手は真逆のように見えるが、実際はひどく美しい調和を見せていた。今度、夜のベールのようなムスクにコショウ、それにそっと枕辺に添えるような水仙の香りを混ぜてみよう。きっとこれまで作ったものとは異なる奥深さを感じられるはずだ。そうだ、とウィラは花の向こう側に思いを巡らせた。この香りは他の香りと混ぜたならば、きっと面白い結果を産むだろう。
「ご親切ついでに、一つお願いをしてもいいかしら」
「内容にもよるな」
「簡単なことよ。そう構えないで頂戴」
本当に、ちょっとした出来事なのだ。だが運命とは、風が花を揺らすような出来事で大きく捻じ曲がる。ウィラは『ウィラ』に相応しい、大輪のバラの花のような笑顔を浮かべた。
「すぐに終わるわ」


***


 女性は魔力を持つ。母国では生き神として選ばれる人間・クマリがいたが、伝統的に女性のみと定められていた。神と自分たち人間をつなぐ力がある彼女たちに、恐れ多さと同時に不気味さをも嗅ぎ取った幼少期の気持ちを、ナワーブは未だに鮮明に思い出せる。ウィラは正に名状し難い気配を抱える女性だった。軒先に吊るされた花を連れて帰った親切心は罠だったのかもしれない。
 故郷の母は、ドライフラワーをよく作っていた。煎じ詰めて薬にしたり、染料にしたり、あるいは料理に添えたり、時を留めた亡骸はナワーブたちの生活を豊かにしてくれたものである。だから、霜が降りた姿を見かねて救い出したのは自然な行いだった。むざむざ役立たずのまま命を散らせるのは口惜しい。時を操る魔女、ウィラの頼みごとは彼女が保障した通りに些細なもので、子供にだってできそうなお使いである。だと言うのに、ナワーブは奇妙な予感から若干尻込みしつつ、温室に身を滑り込ませた。
「おーい」
「ウッズさんに何の用事だ、青年」
幾重にも連なる花壇の畝から、小さな女性を探すのはいささか難しい。山で鍛えた声を張り上げると、ひょいと顔を覗かせたのはこの場に似つかわしくないクリーチャーだった。エプロンにゴム手袋、片手には剪定バサミという姿からして、この温室の主であるエマを手伝っている最中らしい。クリーチャーはエマのことを好きでつきまとっているのだ――当たり前の事実を思い起こすと、どういうわけかナワーブの頭がぎゅっと痛んだ。しかもこれは初めての出来事ではない。彼が、誰か他の人と親しい時にはいつでも訪れるしびれだ。
 エマ、エミリー、フレディの最初のメンバーは言うまでもなく、セルヴェやカートといったカード仲間との会話さえもが耳障りになる。ひょっとすると、自分は思った以上にクリーチャーが嫌いなのかもしれない。まさか。違う、と囁く頭の底に蓋をすると、ナワーブは花を愛でる人に返事をした。
「あんたこそ。器用なのは知ってたけど、花の手入れもするなんてね」
「……花は金になるからな」
「え?」
「私も色々仕事をしてきた、それだけのことさ。君こそ花なんて柄でもないだろう。まさか、ウッズさんが目当て」
「違うって!ウィラに頼まれたんだよ。いくつか香水を作るのに欲しい素材があるってさ。ほら、メモをもらったんだ」
ウィラにもらったメモを見せると、クリーチャーが安堵したように表情を和らげて検分し始める。手持ち無沙汰の落ち着かなさから、ナワーブはしげしげとクリーチャーを観察した。隙だらけのようで存外他人に付け入る隙を見せない男を、正面切って観察する機会は貴重だ。
 まずは瞳だ。今日はいつも目深に被っている帽子がないため、左右異なる色の瞳が昼の柔らかな日差しにキラリと光っている。だが、書付を眺める瞳は奇妙にも一つしか動いていない。義眼なのだ、と思い当たってナワーブは軽く目を見開いた。今まで少しも彼の視界の狭さを感じることはなく、寧ろ細かいところまでよく気づくものだと関心さえしたものである。クリーチャーの滑らかなチェイスは時に両目が開くナワーブをも凌ぐ。ヘレナにしてもそうだが、目とはただ開いているだけではガラス玉のようなものだ。何を見るか、どう見るかが肝心ですよといつぞやイライがわかった風で言っていたことを、ナワーブは今改めてすとんと腹落ちさせた。クリーチャーの片側の世界に、自分はどう映っているだろうか。そんなことが気になって胸がくすぐったくなるだなんて、本当にどうかしている。
 ついで目に入ったのは腰のあたりだ。長いエプロンを身につけると、体の細さが一層はっきりとする。一体どのような生き方をすれば細枝のような状態で育つのか、『慈善家』というよりも『修道士』や『貧者』という言葉の方がよほど似合いそうだった。あるいはいっそ突き進んで『乞食』か。自分の国を出て以来、ナワーブは様々な欧米人を眺めてきたが、クリーチャーの体はまさしく貧相という言葉を体現していた。掴んでみたらばどんな心地がするだろう。平たい稜線へ誘われるような気配に驚くと、ナワーブはそっと目を逸らした。思えば荘園に来てからというものご無沙汰だが、それにしても惑うにも程がある。持て余すものが多すぎてまごついていると、クリーチャーがメモから顔を上げた。
「どれも渡せそうだな。待っててくれ」
「エマに頼みに行くなら、俺が行くよ」
「ウ、ウッズさんの手は煩わせないさ」
感情が高ぶったのか、クリーチャーが吃りがちになる。こうなったらば落ち着かせる方が先だ。ナワーブが同意を示すと、クリーチャーは入り口に積まれた籠の一つを手に取って、左手奥の花壇に迷わず進んでいった。あちらでちょきり、こちらでジョッキン、パチンパチンと音を立てながら籠の中に香草が、花が連れてこられる。花屋よりも正確な手さばきではないかとナワーブは感嘆しながらクリーチャーの後に続いた。
 過去を振り返ってみると、この男は手先が器用である。一度激昂すれば、細腕を無闇に振り回して暴力へと昇華させるが、本来は臆病でおどおどとした仕草が常だ。どちらにしても好感を抱く様子ではない。だが料理をする時、こうして草花を相手にする時の様子は繊細で、ややもすると愛情すらをも感じられる。道具箱を開ける際の手際の良さは怪しげな商売を彷彿とさせた。
 彼を観察してゆくと、目まぐるしく変化する万華鏡を覗くような心地になる。無駄な思考の積み重ねであることは歴然としていた。自分らしくもない、とナワーブは苦笑した。何が彼のなりたかった姿で、なし得た姿なのか、本当のところは本人にしかわからないだろう。ただ、香りに包まれるクリーチャーを眺めるナワーブの心がほぐれたことは確かだった。そうこうする内に香りを集めた籠が差し出され、束の間の思考の散歩は中止となった。
「ほら、ウィラに持って行くと良い。これで全部だな」
「あ、えっとさ」
クリーチャーの目が怪訝そうに細められる。自分でも不自然な動きだと言うことをナワーブは重々承知していた。いやだ、と頭の中で子供が駄々をこね始める。籠を受け取ってしまえば、この逢瀬は終わってしまう。ただのお使いであって、クリーチャーに出会ったのはおまけのようなものだと言うのに、ナワーブは少しでも引き伸ばしたい心地になった。
 マリーゴールドの花が脳裏をちらつく。幼少期に祭りのたびにばら撒いた、活気付くオレンジ色の花たちは丁度今頃咲き乱れるのだ。クリーチャーの片方の瞳の色にも似た花を首にかけてやったらさぞ映えるだろう。馬鹿な。このしなびた男に自分は一体何を夢見ているというのか?
 悔しいことに、クリーチャーと触れる時間はいつだって自分を振り回す。ナワーブの抱えるステップは崩され、足下がおぼつかなくなる。口をついて出た言葉のままにさっと辺りを見渡し、ナワーブはぶっきらぼうに並んだバケツを指差した。
「あれ、何」
「……ふ」
「なんだよ」
緩やかにクリーチャーの顔に笑みが広がった。ああこんな表情も彼は持つのだ!ナワーブは自然と唇の端がムズムズとするのを抑えることで精一杯だった。かっこ悪いことこの上ない。手に提げた籠を入り口の方へと運んだクリーチャーは、くつくつとこみ上げる笑いを殺して肩をすくめて見せた。
「教えても怒らないでくれよ」
「約束する」
「本当に?」
「しつこい」
ほら、そうやってまた自分をわざと揺らすのだ。何度繰り返したやりとりだろう。からかいを含んだ声音から、クリーチャーがナワーブの一挙手一投足を楽しんでいることは明白だった。他人であれば一発わからせてやっても良いところだが、ナワーブはぐっと耐えることにした。前に進むには、目の前に広がる感情の波にさらわれずにするより他にない。今、ナワーブは自分の心の奔流がどこからやって来るのかを知りたかった。
「あー、殴らないでくれよ。聞いたのは君なんだからな。ば、馬鹿にしているわけじゃないが、君の尋ね方が可愛かったんだ」
「は」
クリーチャーの目元に滲んだのは懐かしさだ。一体何と自分は重ねられたのだろう?頬が熱くなる。ざわざわと血潮が立ち上って耳元でうるさい。嬉しいだなんて!自分は、自分は――むしゃくしゃとした葛藤が形を成さないままに問いかけは終わり、クリーチャーはバケツの方へと歩いて行く。ひらりと指先で示されたバケツの中には、大量の若草色の木の実が水の中で眠っていた。てらてらと光った水面が眩しい。
「オリーブだよ。数日前に収穫して、渋を抜いてる最中なんだ。明日には塩漬けができるぞ」
「本当だ、オリーブだ」
近くでまじまじと見れば、食卓でおなじみのオリーブだった。若やいだ、青みがかった味を濃厚だと感じていたが、元々渋みが強い果実だとは知らなかった。ついで、誰かが一から全て手間暇かけて食べられるように加工している事実に畏敬の念さえ抱く。クリーチャーは、今年は初めての収穫なのだとオリーブの木立を指差した。
「ウッズさんが試してみたいと言ってたんだ。出来上がるまで味は保証できないけどな」
「最初に味見するの、俺にやらせて」
「毒かもしれないぞ」
ニヤリと笑ったクリーチャーの横顔に、ナワーブはいつぞや食べたパンと水のことを思い出した。自分に理性を取り戻してくれた、ひどく素朴で美味しかった食事は今でも鮮烈に印象に残っている。非情で論理的な物言いにどれほど救われたろう?朝が来るたび、湯気立つパンはナワーブを祝福した。
「あんたなら、毒消しだってくれるでしょ」
「……君なあ、」
クリーチャーがモゴモゴと口を動かして、声に出せていないのはうまく言い負かせた証だ。滑らかに舌を動かす相手を言いくるめたとは小気味良い。ナワーブがケラケラと笑い出すと、クリーチャーが参ったな、と小さく呟く。いつまでも残り続けた声は、ナワーブの腹を満たしつつあった。正しいかはまだ実感を抱けずにいるが、自分は彼との時間をもっと欲しいという気持ちが明確な輪郭を持った瞬間だった。


***


 意外な話だが、弁護士であるフレディの特技はカクテルの製作である。弁護士らしい働きをするまでには、致し方なく手を染めた紆余曲折があるというわけだ。今となってはバーメイドであるデミ・バーボンの登場により主だって出ることはなくなったが、古馴染みには時折こっそりと作ってやることがある。
 例えば、目の前でマティーニを舐めるように飲むクリーチャーなんて正に常連だ。今日はおまけもついて来ており、カクテルよりはビールやスコッチをストレートで飲むことを好むナワーブがピタリと横に張り付いている。グラスを縁取る塩を思い出し、フレディはふむと鼻息を漏らした。おかわりのマティーニを作るついでに、今度のオリーブの塩漬けにはピックを二本に増やしてやる。飲みすぎないための目安としてこうした符丁を準備することはフレディの密かな楽しみだった。いかにも中産階級的な、迂遠で格式張った遊びではないだろうか。もっとも、飲み助には無駄な忠告だろう。意外なことに、つい先ほど参戦したばかりのナワーブが、酒に沈む塩漬けのオリーブに瞳を瞬かせた。
「へえ、オリーブを入れるんだ」
こうなれば、ただの酔っ払いを相手にするよりも興が乗る。キラリとメガネを光らせると、フレディはとくとくと説明に入った。
「酒に入れるだなんて意外に思うのも無理はないな。つまみと一緒に出せて便利だろう?それに、違う味をたまに食べると味に深みが増すんだ。特に、今年のやつは出来がいいから作り甲斐がある。サベダー君も手伝ったと聞いたぞ。スイートガールが喜んでいた」
「……本当はウッズさんと二人でやる予定だったんだ」
「あちらがそれを望んでいたと思うか、ドブネズミ。人の説明に割って入るな」
せっかく述べた話の腰を折られるのはどうにも腹が立つ。既にまなじりを赤くしたクリーチャーからは威勢のいい言葉は聞こえない。隣から流れる雲が深く垂れ込む様を見て、フレディはそれ以上茶々を入れることを止めた。自分を恋人たちの刺激剤にされるのは、どちらかと言えば不愉快の部類に当たる。痴話喧嘩であれば他所でやって欲しいと切に願う。
 愛、それ自体はこのろくでもない荘園において奇跡に等しい児戯だ。最愛の人を失ったフレディに言わせれば、失う可能性が高い相手を掴むのは余りにもリスクが大きい。クリーチャーが黙っているのをよそに、オリーブに刺した爪楊枝を取ってナワーブがつまみ食いを始めた。
「ん、本当だ。お酒とオリーブって合うね」
「だろう。レモンピールもなかなかイケるぞ。フレディに頼むと良い」
「気安く頼んでくれるなよ」
クリーチャーのものを横取りしても咎められないナワーブはつまり、それほど特別に許されているということだ。一度自分が手にしたものを引き剥がされれば、どんなに些細なものであっても恐慌を来して吠えた男の獣性はすっかりなりを潜めている。一見穏やかなようで扱いのややこしい、胡散臭い男と、我慢強く何を考えているのか――かつてはよくわからなかった男という組み合わせは、さながらマティーニのようだ。意外な組み合わせが面白いのよ、とウィラが新作の香水を披露した際の言葉が思い出される。

 もし、この幻想が続くのであれば世界も捨てたものではないだろう。我ながら不思議な希望を持って、フレディは最後の一杯だと強調しながらシェイカーを振った。


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