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まだ、君に夢中。/#4.スパイスの涙


 寒くて暗い日は嫌いだ。どんよりと灰色の雲が垂れ込める空を見やって、クリーチャーは果たして洗濯物を外に干すべきかどうか迷って唸った。いっそ狭いながらも乾燥室に無理くり押し込めて乾かした方が適切だろうか。布巾とバスタオルは最優先で片付けたい。それと下着の山!ゲームで泥まみれになった苦労を癒してくれるのは暖かな食事と風呂と相場が決まっているのだ。優れた給湯器が設えられた荘園の館は、今やトレイシーの手により一層快適さを増していた。彼女に言わせれば、ハンター側はより進んだ文化的生活を送っているはずだという。だが、ウィラの作った洗剤の微睡むような香りはサバイバー側にのみ流れるだろう。
 バルクはすごいんだよ、と普段容赦無く殴りつけてくる相手への惜しみない賛辞を捧げるトレイシーは純粋さの塊で、クリーチャーは自分が引き伸ばすために断ち切ったいくつかの未来を思って痛まない胸を痛めた。あれは、最善の手だったのだ。弱く寄る辺のない子供たちが、自分のようにならないために、また自分が二度とあんな立場に陥らないためにできる最大限の努力は正しい。選んだ道のりに対する責任も誹りもクリーチャーは甘んじて受け入れる覚悟があった。例え世間が慈善と呼ばずとも、『慈善家』であると、胸を張って言う資格は十分あるだろう。
 汚れ物を洗う前に、既にほつれが目立つ布や、薄くなって来た布を取り分ける。彼らは十分に役目を終えた、よってこれからは別の生き方を用意してやらねばならない。雑巾に、靴磨きに使うウエス、クリーチャーは最後の最後まで全てを利用する気でいた。
荘園の主人は、注文すれば金額の多寡など気にせず送り届けてくれる。生活費だけでも積もり積もって恐ろしい金額になると推測されるが、一体どんな悪魔の財布を手にしているのだろう?それとも、と時折クリーチャーは胸をひやりとさせた。それとも、賞金なんてどこにもなくて、自分を含めた誰もここから出られないのかもしれない。魔法に埋もれた館が実はとうに外界から切り離された別世界だとしても何ら不思議ではなかった。この館ではいつだって奇跡が起こりうる。まさか。
 正解が存在し得ない考えに深くはまりかけ、クリーチャーはすんでのところで舞い戻った。いつか、自分は外に出るのだ。一人の人間として堂々と陽のあたる道のりを歩んでいく気持ちで、社会に場所を得る。世の中にクリーチャーは必要で、あざ笑っていた人間たちはくるりと掌を返す。差し伸ばされた手を握りながら懐を探るのはさぞや気分が良いだろう。
 不穏なことに、想像を巡らせれば巡らせるほど夢は空転する。何故、ふわふわとした雲を掴むようなあやふやな未来絵図になるのかをクリーチャーはよくよく理解していた。自分が視る将来は、どうしても何も実らない。芽が出たと期待した端から腐ってゆく。たった一度でも確たるものを得れば、きっとこんな呪縛からも解放されるはずだ。遊びが下手な人間は、良いお手本が欠けている故である。だから、せめてここでは着実な立場を確保したかった。小さな模型で得た隙間は、広い世界に躍り出る第一歩となるだろう。
「うわあ、随分多いね。手伝うよ、ピアソンさん」
「ノートン」
ぼんやりしている内に、周囲への警戒が疎かになっていたらしい。柔らかで低い声が響いたことに対し、半ば呆けたようにして洗濯室の戸口を見れば、ノートンのがっしりとした巨躯が立ちはだかっていた。様々な体系の人間がいる中で、大木を思わせる容姿をしているのは彼だけだろう。世間に出ても物怖じせずに堂々と歩いていける人間だ、とクリーチャーはどこか羨ましく感じていた。事実、炭鉱夫という経歴を持ち、他人と連携して仕事をこなす経歴を持つ(ウィリアムのそれはスポーツに関するものなので、やはり少々異なる)ノートンの立ち回りは流れる水のように無駄なく自然だった。
「あー、もうボロボロになってる奴とか、君に渡しているウエスのようになっているものがあればこっちに選り分けてくれ。あとで洗濯するんだ」
「了解。本当に量が多いな。人が増えてきたから、当然といえば当然か。まさか、いつもあなた一人でやっていたのかい?」
「……前はな」
今は違う。時折こうして誰かが手伝ってくれるようになったのだとクリーチャーは説明した。そもそも自分の洗濯物は絶対に自分でやりたいという人間も存在する上に、クリーチャーとしても女性陣の服を弄るのは心が引ける。欲目で言えば、周囲の人間がクリーチャーという存在に慣れたという証だろう。当初はどこか一歩引かれている節があった。現在基本的には当番制であり、クリーチャーが隙間を埋めるようにして多めにこなしている状態である。
 幸いノートンの鑑定眼は確かで、速やかに現役を続投できるものと引退するべきものとが山に積まれてゆく。最後の審判の日、きっと神はこのようにして天国か地獄か、どちらの行く先にするかの振り分けを機械的にこなすに違いない。とは言え判定に問題があるといちいち申し立てをされたならば、『一日』では済まされないだろう。なにせ相手はその日までに生まれ、死んでいったあらゆる人間たちなのだ。地獄行きがわかって、はいそうですかと従う殊勝な人間は、そう多くはなさそうだ。世界が終わるその日を想像してクリーチャーはクスリと笑った。誰にでもそうであるように、最後の審判を行うことは神にとっても初めてのはずである。あらかた終えた頃、ノートンは達成感にあふれた快活な笑顔でクリーチャーに向き直った。
「次から、俺に声をかけてくれないか?一人でやるよりも、二人で手分けした方が早い」
「良いのか?」
「もちろん」
ケロイドにより、顔のおおよそ半分が歪な動きを見せるとは言え、ノートンは魅力的だなとクリーチャーは改めて気が付いた。むしろ全て綺麗であれば完璧すぎて近寄りがたいかもしれない。今の彼には、有り体に言えば天使が翼をむしられたような人間味がある。さて、審判される人間よりも少ない数の洗濯物の山は綺麗に裁かれ、すっきりとした床にクリーチャーは胸がすく思いだった。ついで人の無償の優しさという、かつては到底信じられないものも受け入れられる気分である。とは言え無料より高いものはない。ノートンには後で軽食でも作って差し入れるとしよう。
 残りの作業は一人でできるから、と洗濯機を稼働させながらクリーチャーはノートンを見送り――ギョッとして動きを止めた。洗濯室から屋外の物干し場へと繋がる扉の前に誰かが立っている。キイ、と扉が開くことに対して腹が痛くなるほど緊張したのは、盗みに入った先で住人に気付かれかけた時以来だ。一体誰だろうかとハラハラして見守る。だが現実とはまま拍子抜けしたもので、扉の先にいた人物を目にしたクリーチャーは長々とため息をついた。
「なんだ、サベダー君か。脅かさないでくれよ」
「いや、脅かすつもりじゃなかったんだけど」
ノートンが去る頃に来たのだ、と気まずげに話すナワーブはどこか普段と様子が違うようだった。口はばったい物言いは、いつも真っ直ぐに行動する彼にしては珍しい。ナワーブの唇の端を歪めるギザギザとした傷跡が歪む。現役続投組を次々と洗濯機に押し込みながら、クリーチャーは何が原因だろうと思いを巡らせた。出会ったばかりの印象からだいぶ和らいだ元傭兵は、このところは本のページを開くように少しずつ新たな側面を見せている。
 例えば、本当は表情が豊かであり笑い上戸であるとか、花に詳しいだとか(彼の祖国では祭の度に花が空を舞うらしい、きっと綺麗だ)、刃物の扱いが上手いことはよく承知していたが剃刀ではなくナイフでヒゲを当たっているという驚愕の事実であるとか、数え上げればキリがない。おまけに非常に疑わしく用心したいことだが、交換条件なしに何くれとなく家事の手伝いまで申し出てくれる。ゲーム中のチェイスでの無言の読み合いは俄然順調だ。目を合わせずとも、互いに痒い所に手が届くような行動を取れた際には、飛び上りたくなるほどに嬉しい。
 もちろん、ただ手伝ってもらってばかり、貸しを作ってばかりというのも後味が悪いので、クリーチャーは出来うる限りの返礼をしていた。軽食の差し入れに道具の手入れ、靴の修繕など、数々の職業をかじってきた経験を余すところなく活用しているが、ひょっとしなくともナワーブは先ほどのノートン同様にただ、手伝おうと思っただけなのかもしれない。するりと飲み込み信じることは難しいが、荘園での生活が続けば続くほどクリーチャーの人間観は変化しつつあった。
 この、閉じられた世界だけならば。たった一つの目的のために結びつけられた、わかりやすくも無知で未知の面々が集っている特殊な状況ならば、外界の理屈が通らなかったとしても良い。つまるところはエデンのようなものだ。小さいからこそ行き届いた完璧な場所で、甘えとも堕落ともつかない日々を送るならば心配や不安は全て払拭される。もっとも、エデンを追放された後の気持ちは経験したくはないが、ゲームに負けたとして放逐されたならば、きっと似たような惨めな心地になるだろう。どう料理したものか、難しい様子のナワーブに業を煮やしたクリーチャーは、とうとう自分からこの気まずさに終止符を打つことにした。
「何か私に用があるのか?急ぎの洗濯物なら今出してくれれば間に合うぞ。他人に知られたくないものならば、一つ洗濯機を譲ろう」
「用なんてないよ」
「それじゃあなんで、」
「あんたと話したかった、って言ったら信じてくれる?」
すっきりとくもりのない瞳に貫かれて怯み、クリーチャーは一歩後ずさりした。生まれて初めて太陽を見た人間は、丁度こんな気持ちだったのではないかと思うほどに熱く、恐ろしく、そして何より輝いている。触れたならば燃やし尽くされてしまいそうな勢いがあった。灰色の空にヒビが入る。ドキドキと高鳴る心臓が飛び出しやしないかと焦って、胸のあたりのシャツを握る。掌に汗をかいているのか湿った感触がした。喉が鳴る。生きることを持て余してクリーチャーはおずおずと現実に対峙した。
「話してくれ」
声を聞きたい。利用することも取引を持ちかけられることもなく、無垢だった頃を引きずり出されるようなナワーブとの時間は、率直に告白すれば好きだったのだ。パンと水を渡した瞬間のひりつくまでの緊張感が取り払われた言葉、渋々ながらも本心をしたじゃれあいに喧嘩、話すつもりのなかった過去をポロリとこぼした隙間、見えなかった彼の一面をまたひとつ剥ぎ取った静かな対話、あらゆる彼との触れ合いが脳裏をよぎる。めまぐるしさで息もできない。一体自分はどうしたろう。正しさの見えない心にクリーチャーは戸惑い、確かめられる唯一の方法にすがった。答えはきっと、お互いだけが知っている。
「わ、私も君と話したい」

窓ガラスを、雨が叩き始めた。


***


「寒い時はスパイスを多めにすると良いんだ。面白いよね、毎日食べても毎回違う味で出てくるからちっとも飽きなくてさ。基本は全部同じなんだよ?」
「ハンバーグやミートボールとも違うんだな」
「なんでも包むからね」
クリーチャーに語りながら、ナワーブは手元でこねた生地を半分に切り分けて隣に立つクリーチャーに渡した。流石は台所に立つことの多いクリーチャーである、細かく指示されることなく麺棒です、す、と生地を伸ばして掌ほどの大きさに分けてゆく。阿吽の呼吸に爽快感さえ覚えてナワーブは破顔した。黙り、ぎこちなく語ることを手探りで始めて一周した今、二人の間には降り積もるほどに数多くの言外のやりとりが存在する。彼と共に過ごす空間の全てに意味があると言っても過言ではない。
「明日はピアソンさんのミートボールスパゲッティが食べたいなあ。あの大っきくてゴロゴロしてるやつ」
「ローズマリーがたくさん入った?」
「そうそう」
「考えておこう。ウィリアムも喜びそうだ……君の分は多めに取っておくさ、そんな顔をするなよ」
「ハンバーグも作ってくれる?」
「つなぎを少なくしといてやるよ。特別製だ」
粉まみれの手がするりとナワーブの手をなぞる。謎かけをされている心地はたまらなく胸をざわつかせた。ああ全く飽きない!今作っている故郷の味とも似ている。モモ、それはナワーブの母が事あるごとに作ってきたお手軽な日常の切れ端である。昨晩、寒さが忍び寄ってきたと話し始めた時にふと、故郷のことを思い出したのだ。クリーチャーとはいくつも自分の断片を話してきたが、味をなぞって共有するのは初めての試みとなる。
 皮ができれば次は具だ。中心となる挽肉は、挽き立てが良いと思う。それも、ミンチ機ではなく手で一から作る、母のやり方をナワーブは真似てみたかった。豚肉の塊を薄く薄く切り出し、さらにそれを重ねてみじん切りにする。少し粗めのまばらな感じがナワーブは好きだった。手作りの名残のようなものを感じるのかもしれない。だから、クリーチャーが作るハンバーグもどこか歪な形であった時の方が笑みが広がる。味はどれでも同じだけれども、自分だけに別に作ってくれるというのもまた良い。
 肉を切る時、頭の中で肉が時折別の肉へと変化する。心臓に嫌な汗が伝わり、お前は忘れたのかと呪いかけてくるかのようだ。この肉にナイフを入れた、その瞬間をよく覚えているだろう?うめき声、叫び声、溢れる血潮に冷たくなってゆく肉の肌触り。隣にクリーチャーがいなければ、ナワーブはぞわぞわとした気持ち悪さを拭えなかっただろう。
もちろんそんな事情を彼は知らず、ただ隣で玉ねぎを細かく切っているだけだ。それで良い。二人がいる、この空間が何よりも好きだ。今、自分は生きて、安全で安心できる平和な場所にいるのだとつくづく実感できる。具材を細かく切って、ガラムマサラやコリアンダー、クミンと好きなスパイスと一緒にボウルで混ぜ合わせる。嗅ぎ慣れない匂いにクリーチャーがくしゃみをし、ナワーブはクスクスと笑った。
「俺の実家からそう遠くない街に、スパイスの市場があるんだ。国中から人が集まるほどに大きくて、まるで一つの街みたいなんだよ。賑やかで楽しいけど、ちょっと困ったことがあってさ。市場が開く日は、風に乗って時々こうやってスパイスの粉が流れてきて」
「ヘックシュ」
「鼻がムズムズするんだよね。人によっては肌が痒くなったりもするって聞いたよ。俺は慣れたから今は平気だと思うけど、ピアソンさんは大変そうだな」
言いながら、クリーチャーがあの切り立った山々が折り重なるような場所に立つ姿を思い浮かべ、ナワーブはそのちぐはぐさに胃がチクチクと痛んだ。二人の関係は、荘園という特殊な環境で生まれた。たった一つの目的のために命を張って渡り歩く、小さな偽物の戦場の類である。日常に戻されてしまった非日常が、どんなに不釣り合いか、気まずいものかをナワーブは身を以て知っていた。どうやったらクリーチャーを日常に連れ出せるだろう?ずっとそのままに留めて置けるだろう?黙々と二人で具を皮で包み込みながら、ナワーブは自分の必死さを苦く思った。
 時折、ナワーブは自分が見つけ出した、そして見つけられた関係をなんと呼ぶべきか迷うことがある。一時の気の迷い?極めて特殊な火遊び?客観的な事実を積み重ねれば積み重ねるほどに、漠然と佇む荘園を出て行く日にうろたえてしまう。お前はいつか飽きるのではないか、と日常に置いてきたナワーブが言う。お祭り騒ぎは毎日続けばただの日課で、特別感はすぐさま廃れるものだ。何よりクリーチャーがどう思っているかをナワーブは知らず、また知ることを恐れてもいる。包み終えたモモを蒸し器に並べて火にかけ、自動的にソース作りへと移行しても尚、くすぶる気持ちは治らなかった。青唐辛子の配分を伝え、混ぜ合わせたソースを試しに舐めたクリーチャーが、辛さからか涙を零す。幼い頃の自分の姿と重なって、ナワーブはクスクスと笑みを漏らした。
「辛い?」
「辛いが」
ゲホゲホと噎せながら、クリーチャーはまっすぐにこちらを見てきた。片側の視界を失った男が、真正面から相手を見ることはひどく勇気がいると知っているものだから、キュ、とナワーブの喉が締まる。
「いつかは慣れるさ。君もそうだったんだろう?」
「うん」
じわじわと胸の奥から熱いものが込み上げてくる。それは駆け上がってナワーブの瞳に膜を張った。散々辛いものを食べた。つらい思いをした。人を殺したし、殺されかけたし、誰かを守って守られもした。耐えきれずに全てがどうでもよくなって、人らしさを打ち捨てた時もある。
 そうして、好きな人に出会って胸を焦がし、今自分がいる世界の広さを思い出しもした。あの時、生きる道のりをもう一度与えてくれたのはクリーチャーだ。ただ、朝ごはんを食べないかと誘ってくれた。だから、ナワーブは今ここにいる。
「だいぶかかりそうだけどね」
「おいおい」
モモは、元々祭りの日に食べる特別な、手の込んだ料理だったと言う。今では街中で屋台が出回るお手軽品で、日々の食事にも出されるありきたりな代物だ。けれども、毎度美味しいと飽かず思う、素敵な日常なのだ。

 あなたの日常になりたいと言ったならば、彼はなんと言うだろう。臆病な心をつかみ出して、ナワーブはそっと包みを開けた。


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