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海辺の二人/#3.天使の微笑み


 空港という場所は、自分がこれまでいた場所とはまるで違う環境に入り込んだことを強く意識させられる。入国手続きの数々を終え、ナワーブは深く息を吸った。この国は、塩と魚、ついで見知らぬ香辛料の匂いがする。ふわりと軽く鼻をくすぐるのは果物だろうか?
 暖かい空気に急かされるようにして、飛行機に乗る前に着込んだ厚手の上着を脱ぐ。見回せば、概ね旅客は半袖姿でいるらしかった。
「ナワーブ・サベダーさんですね」
「はい」
不意に呼ばれた声に緊張しながら振り向けば、まるで太陽を一身に受けたようにツヤツヤとした頬の男が立っていた。黒い縮れ毛に愛嬌がある。瞳に映った感情の邪気のなさに安堵するナワーブに、男はジュリオ・マドゥロと名乗った。
「空の旅はいかがでしたか?少し暑いでしょう。お腹は?そう。なら先に案内いたしますね。ああ、私はこちらでの撮影をお手伝いする担当です」
「よ、よろしくお願いします」
南方の人間にありがちな情熱的な人懐こさ、という形容をナワーブはこれまで単なる偏見だろうと鼻で笑っていた。が、ジュリオの様子を見るからにあながち間違いではなさそうだ。車に案内しながら、まるで曲芸のように次々とジュリオの質問や指示が飛ぶ。きっと観光客の案内に慣れているのだろう。三十代半ば頃を思わせる男の背中は不思議とたくましかった。
 空港の玄関を出れば、頬を刺すような強い陽光がきらめき、ナワーブは目を細めた。ここでは誰も自分を知らない。もしかしたら知っているのかもしれないが、あの事件と結び付けてどうこう話す姿は見られない。朝の元気な太陽の下、誰もがただの人間であるだけのように感じられて、ナワーブは密かに感傷的になった。自分の名前が知られていないことへの気楽さと共に、落胆を覚えるのはおごりだろうか。稼ぐ手段であるはずが、骨の髄まで染み込もうとしている習慣のようで、ナワーブは無意識に手で追い払った。
「共演の方は?」
「クリーチャー・ピアソンさんね!彼はかわいそうです。今は風が強いですから。本当は次の便で来る予定ですが、半日は遅れますよ」
「半日も?」
「そう。一日遅れることだってあります。仕方がないね」
今日は雨が降るから洗濯物を干すのは止めます、とでもいうような当たり前の調子にギョッとする。確かに飛行機の発着時間はややもすればずれがちだ。とはいえ半日、あるいは一日も遅れてしまうなど考えにくい。一刻を争うんですよ、と血走った目でスケジュールを組んでいたリッパーを思い出し、ナワーブは唇の端を上げた。既に運命は彼の掌の上を飛び出し、好き勝手に暴れ始めている。
 ゆっくりと伸びをし、埃だらけの車に乗り込む。カメラがずらりと並び、マイクが捧げられるレッドカーペットよりも、こちらの方がよほど気分が良かった。運転席に座るのはもちろんジュリオだ。ダッシュボードに置かれた、小さな子供とオリーブ色の肌が美しい女性の写真が眩しい。きっと彼の家族なのだろう。貝殻を添えた十字架が天井から吊り下げられて揺れていた。要所となる観光地に教会が含まれている通り、敬虔な信徒が多いらしい。
「基本的に、撮影はお二人にやっていただきます。テレビカメラ、使ったことあります?ないね。でも簡単。スマートフォンで撮るのと今はあんまり変わりないですよ。部屋にいる時はリビングに置くものも準備してあります」
「……え、撮影班はいないんですか?」
「いません。私だけですね」
大事な観光の際は自分が案内するので大丈夫だ、とジュリオが胸を張る。今更のように、ナワーブは筋書きのないこの番組の行方に不安を抱いた。ありのままの生活をして欲しいと企画書に書かれていたが、自分と、相方となるクリーチャーとで観客を満足させられるだろうか。
 だが、そんな不安を読み取ったらしいジュリオはぽんぽんとナワーブの肩を叩いて笑顔を見せた。
「大丈夫大丈夫!この番組、前にも何度かあちこちでやってる。私も見せてもらったから、わかるよ。問題が起きた時に頼れる人がいれば、それだけで生きていけるね。この国、楽しいですよ。ご飯が美味しいし、人は優しい。嘘だと思うでしょ?これが本当なんです。だから、サベダーさんとピアソンさんは楽しんだらそれで良い。私も全力で観光の案内をしますよ」
「楽しんで、良いんですか」
いつだって、仕事の時には他人の目を意識していた。カメラを回す撮影スタッフたち、監督、そしてカメラの向こう側でこちらを見ている観客たちの目。街を歩けば、誰が何を見ているのかが気になってしまう。
 この番組では、本当にただのナワーブ・サベダーが剥き出しになるのだ。欠点もあるだろうが、恥じることのない人生を送ってきたという自負はある。面白いか面白くないかと言えば――考え始めてナワーブは首を振った。
 番組の目的は可能な限り果たすつもりだが、自分の目的が最優先だ。凝縮させて言えば、傷害事件を起こした粗暴な青年、という世間の認識を塗り替えることに集中すれば良い。簡単な話だ。ジュリオはナワーブの質問に、信じられないとでも言うように肩をすくめて見せた。
「仕事は楽しみながらやるものです。辛いだけの仕事、この国の人ならしませんね。それにここは良い国です。楽しんでもらえなかったら、私も悲しいです。ほらほら、着きましたよ!ここですね」
歌うような調子に引き込まれていたらば、もう目的地に着いたらしい。いまだ飛行機に揺られているようなふわふわした感覚を引きずりながら、ナワーブは車を降りた。
 クリーム色に塗られた建物がずらりと並ぶ、絵本の中のような場所が待ち構えていた。男二人が暮らすには余りにも可愛らしい。マーサがいたならばきっと喜んだろうな、とあの事件以来会えずにいる友人のことが思い浮かんだ。きっと律儀な二人のこと、気を揉んでいるだろう。
 メッセージのやり取りはしたものの、やはり直接会いたい。あの時間を共有できるのは世界中でマーサとウィリアムの二人だけなのだ。
「どうです?サベダーさん。三階の部屋ですよ。きっと見晴らしがいいね」
壁に付けられたセキュリティパネル(古びた建物だが、部分的に取り替えられているらしい)をいじると、ジュリオが小型のカメラを取り出して構えた。クリーチャーがいない分、この到着シーンは彼が撮影してくれるのだろう。ナワーブは疲労の色が残っていないことを願いながら、『ナワーブ・サベダー』としてのセリフを並べた。
「可愛い建物ですね。こういうところで暮らしたことがないから新鮮だな。中に入っても良いですか?」
「もちろん」
鍵はこちらです、とジュリオが金属の鍵を渡してくる。入り口を潜れば昔のままというわけだ。もちろんエレベーターなどはない。
 カンカン、と足を踏み出すたびに鳴る音を聴きながら、埃っぽい空間を進んでゆく。老齢の人間はどうしているのだろう?膝にかかる負荷が大きそうだ。二階、もうすぐ三階だ。
 終着点にたどり着き、掌の重みを確かめる。ならばこれは天国の鍵か。ふと天井を見上げて、ナワーブはあ、と口を開けた。
「あれは何です?綺麗だ」
「何かな……ああ!陶板画ですよ。青が綺麗でしょう?あの絵は天使ですね。ちょっとした特産品なんです。普通は壁に飾るのに、天井に貼るのは珍しいですね」
吊り下がった鈴蘭の花のような照明をぐるりと丸天井の天使が取り囲む。ツルツルとして見えたのは陶板に描かれていたからだろう。
「空から天使が降りてくるみたいで良いな。幸先が良い」
「あとで大家さんに伝えておきます。きっと喜びますよ。建物の名前も変えるかもしれません。いい宣伝になりますからね」
「だったら良いな。お願いします」
汚れか凹みか、天使の一人がこちらに片目をつぶっているように見えて胸がざわつく。もし、そばにいるのがジュリオではなく、家族であったらば指をさして話すだろう。足に配慮してか、段数の多い階段をグルグルのぼりながら天を目指す。もう一度あの頂点へ。
「天使は悩みがないそうですよ」
羨ましいですね、と言うジュリオは屈託なく、彼にも悩みはあるのかと失礼な感想を抱いてしまう。もちろん自分は悩みばかりだ。
「羨ましいですね……」
「だから空が飛べるんです。悩みがあったら、頭が重くて落ちてしまいますからね」
納得のいく理由に、思わず笑みがこぼれる。真緑に塗られた入り口が、自分の新しい住処だ。ならばその祝福をありがたく受け入れよう。鍵を開ける前、ナワーブはくるりと後ろを振り向いて天井を指差して見せた。
「あそこの天使、ウインクしてますね。俺は歓迎されてるみたいだ」
「本当ですね!改めまして、『Bem vindo ao Paraíso(ようこそ、楽園へ)』、サベダーさん」
「よろしくお願いします」
耳慣れぬ異国の言葉の意味はわからなかったが、歓迎されていることはわかる。歓迎の意を示してくれた天使に片目を瞑ると、ナワーブは自分の肩から力が抜けてゆくのを感じた。鍵を開ける。滑らかな動きに胸がワクワクした。こんな気持ちで扉を開けるのはどれくらいぶりだろう。
「うわ、広い」
出迎えたのは、自分が普段住んでいる部屋と同じ程度のリビングだ。端に仕切られた部分は台所だろう。正面に据えられた窓を開けて良いかと目で尋ねると、カメラを構えたままジュリオが頷く。
 一刻も早く、この天国の風景が見たくて仕方がなかった。カーテンを開け、空の青さがあまりにも近くて目を見張る。空は空で、どこにいても見上げられるというのに大層美しい。重い窓を開ければ、一日を始めたばかりの街が欠伸をしていた。
 見渡す限りに広がる赤茶色の屋根が波打ち、黄色にオレンジ、ピンクに緑と賑やかな色合いの壁が花を添える。時折白っぽい壁に青が走って見えるのは、先程の天使のような絵が描かれたものなのだろう。自分が普段住み暮らす街と異なり、玩具箱をひっくり返したように賑やかだ。
 もちろん街並みだけでなく、人々も活気づいている。カフェらしき店からいそいそと出てきた店員はテーブルを運んでパラソルを広げ、椅子を並べる。並べた端から客がやってきては慣れた調子で注文をしているようだ。音楽のように異国の言葉が耳を打つ。果物売りがトラックでやってきて、溢れそうになるほど積んだ山からお勧めを道ゆく人に売り込む。
 空港で嗅いだものと同じ、日々の生活の匂いが漂い、ナワーブは今更のように空腹を覚えた。
「ここから見えるのが大通り。地図の目印はあそこの店ですね、大きな魚の絵が壁にあるでしょう?缶詰をたくさん売ってる専門店ですよ」
「缶詰の専門店?そんなに缶詰の種類があるんですか」
「ええ。この国の売りの一つ!缶も可愛いからね、お土産にもぴったりです」
ジュリオはあちこちを指差し、どこそこの店が美味しいだとか、市場はあちらだとか話してくれるのだが中々頭に入らない。おいおいわかっていくだろう。
「右手の方、見えますか?あちらが海です。市場もあって賑やかですよ。散歩にも、食べ歩きにも向いています」
身を乗り出して見やれば、曲線を描く坂道の向こうは海へと続いている。企画書に添えられた写真の通りの青で、空とはまた違った深く澄み渡った色がナワーブを呼んでいた。この国ではどんな色も、自分の知らなかった色だと教えてくれる。ただ風景を眺めるだけで心が穏やかになった。
「すみません、お話を聞いていたらすっかりお腹が空いてきました。ジュリオさんのお勧めのお店に連れて行ってくれませんか?」
「もちろん。すぐ行きましょう」
その前に、とジュリオは腰に巻いたポーチからスマートフォンを取り出して渡してきた。こちらでの連絡手段なのだという。
「GPSが入っています。あと、簡単な会話の通訳アプリもね。何かあったらすぐに連絡してください」
「ありがとうございます」
「それでは参りましょう」
独特の訛りを交えてジュリオが誘う。陽気な声はどこまでも優しい。建物を出て、眺めていた景色に立てば自分もこの景色の一員になったような心地がした。きっと上手くいく。来て良かったのだ、とナワーブは自分の腹が鳴る音を聞いた。


***


 旅の始まりは最悪だった。初めての海外旅行なのだからと念には念を入れて準備をしてきたにも関わらず、肝心の飛行機が時間通りに飛べないと言うのである。
「あの辺りは風が強いものね。気を楽になさいな。大丈夫よ」
「エミリー、母親面をするのはやめてくれないか。私だって大人だ、それくらいはわかる。撮影が遅れても良いのか心配になっただけだ」
「あら随分なセリフね」
ツンと澄ました調子のエミリー・ダイアーに、クリーチャーは心の中で感謝した。少し年上のこの女優は、本当の家族のような暖かさがある。
 一年半にも及ぶ『第五人格』の撮影以来友人関係を結んでいる彼女は、フレディからこの仕事のことを聞きつけてわざわざ見送りに来たのだった。フレディ同様に、エミリーがあの作品で災いしたものは何一つとしてない。クリーチャーだけ影響を受けたことが、共演者たちの間で共通の罪悪感や責任感めいたものを生み出しているらしかった。
 そんな必要はまるでないとは解っていても、ありがたいことは確かだろう。親族がおらず、天涯孤独の身の上のクリーチャーにとって、俳優仲間ほど心強いものはない。
「飛行機に乗るのはこれが何度目?クリーチャー」
「……2回目だ」
それも短い距離のものである。エミリーならば乗ったうちに数えないと鼻で笑うだろう。
 今回滞在する国について、ジョーカーは少し足を伸ばす程度の南の国だと説明していたが、クリーチャーにしてみれば、気が遠くなるほどに非現実的な場所だ。体が浮かび上がった時に言い知れぬ落ち着かなさを味わったことは今もよく覚えている。風が強いならば、さぞや揺れるだろう。まさか海に落ちたりすまいか、鉄の塊が空を飛ぶことが信じられずに空恐ろしくなる。
「ほら、もうすぐ搭乗開始よ。傷んだものは食べないようにね。お土産はバカリャウ(干した鱈)で良いわよ」
「酒じゃなくて良いのか?」
耳なれぬ物の名に問い返せば、エミリーは笑って打つ真似をした。見た目は楚々としているが、彼女は仲間内で一番の酒豪である。どうせクリーチャーには味がわからないだとか、あるいは気楽に買えるものだからとか、色々考えてくれた上でのセリフなのだろう。実際、クリーチャーの舌の経験値は彼女に比べればお粗末だ。
 放送がかかり、半日ばかり遅れたクリーチャーの乗る便が無事飛ぶことになったと告げる。続け様に流れる異国の言葉が背中をくすぐった。急かされるようにしてゲートを確かめ、クリーチャーは何度目かの確認としてチケットを取り出した。
 パスポートは?持った。財布ももちろんある。企画書、衣類、念のために詰め込んだ遊び道具と語学の本。フレディが押し付けてきた観光雑誌に、エミリーが渡してきた常備薬もある。それと、今日は姿を見せていないが、同じく『第五人格』で共演したエマ・ウッズからは安眠用のポプリをもらっていた。準備は万全だ。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい。気をつけてね。それと」
「それと?」
「楽しんで!せっかくの海外旅行なんだから」
楽しんで?あまりにも自分にそぐわない言葉に、クリーチャーは唇を歪めた。これは仕事だ。そして、『クリーチャー・ピアソン』を殺す旅である。楽しみからは程遠い。  ともかく、今は間違いなく目的地に辿り着かねば。検疫にゲートにと障害は多い。飲み物も買っておいた方が良いとジョーカーは言っていたし、語学の本はおさらいをしておきたい。格好つけるわけではないが、少しでも自分が役に立つ印象を相手に与えたかった。
 もう何度も確認して表紙が柔らかくなった企画書を取り出すと、クリーチャーは最後のページから目的の情報を探り当てた。
 共演する『グルカの英雄』は、詳細なプロフィールによれば自分よりも少し年下であるらしい。もっと年齢が離れているだろうと思い込んでいたが、東洋の人間らしい幼い顔立ちで錯覚していたようだ。趣味や食べ物の好み、出演作品はもちろん頭に入れてある。長らくスタントマンとして地歩を固めていたと知り、舞台俳優の裏方として長い下積み生活を送っていた自分と重ねて好印象を抱いた。
 順風満帆に進めてきた俳優人生は、だがしかしここに来て暗礁に乗り上げたらしい。最終的にクリーチャーが辿り着いたのは彼が起こした『問題』である。
 きっと彼の輝かしい業績に傷をつけまい、と何とはなしに想像していたが、まさにその通りだった。英雄は酔っ払っても尚、英雄であったらしい。自分を侮辱した相手に手を挙げずとも、友人のためであれば躊躇いなく拳を振るう。おまけに、相手の怪我は大したものではないという。笑ってしまうくらいに立派な英雄譚だった。大衆紙があれこれ書き立てたところで、一般市民の評価は揺るぎない。やり過ぎたものの、理由は十分に受け入れられるというのが概ねの感想だった。クリーチャーも同意見だが、おそらく自分が彼の立場であれば黙って立ち去っただろう。友人が絡まれるよりも早くに退散したはずだ。
 クリーチャーは移民ではないが、ナワーブと同じくらいに爪弾きにされる理由がたんとある。近頃の大きな要素は『第五人格』に集約されるが、出自を知る人間であればクリーチャーの階級は侮蔑の目を向けられていた。民主主義が広まり、階級社会は過去の遺物のように歌われたところで、人の認識とはそう簡単に覆されるものではない。寧ろ、目に見える移民が抱える問題よりも問題視されない、社会の奥深くで腐った根なのだ。
 おまけに自分は親戚も居らず天涯孤独で――と事実を連ねると御涙頂戴の悲劇を想像されそうだが、幸にしてクリーチャーは自分の出自に悩むことはなかった。謂れのない評判に怒りや悔しさを孕んでも、表に出す勇気がなかったとも言える。自分一人が気持ちを表に出したところで、世界はびくともすまい。時間があれば少しでも稼いで、何もかもから逃げ出したかった。
 いよいよ飛行機に乗り込み、窓から曇り空を眺める。この国は八割型天気が悩ましい。これから飛び立つ南の国は、驚くほどに青が広がるのだと企画書は謳っていた。海の青と、空の青。そして太陽の光を一身に受けたような笑顔が花咲く人々。まるで想像の中の架空の国のような響きがクリーチャーを魅了してやまない。
 ガラス窓に映る、痩せた男の顔に気づいてクリーチャーは苦笑した。この空模様と同じくらいに不安を抱えた顔では、ナワーブにいらぬ心配をもたらすだろう。あるいは不信感を抱かれる可能性すらある。ナワーブに渡されただろう自分のプロフィールは、特段魅力的なものではない。この自分を見て、相手にどうにか安心して欲しかった。
「私の駄目なところ、か」
クリーチャーの欠点をズケズケと言ってのけるフレディやエミリーが懐かしい。思えば自分は彼らに甘えていたのだ。ジョーカーも含めて、自分を信じてくれている人間がいるならば、そしてあの人々の目が自分に向けられて熱を感じられるならば、真面目に考えて損はないだろう。
 見知らぬ人と、二人で暮らす。フレディのフラットに押しかけて住んだのとは訳が違う。あの好青年と自分とが暮らすだなんて想像の果てだ。せめて頼りになる人間であると思わせようと、クリーチャーは語学書のページをめくった。観光向けに簡単なセリフがいくつも並んでいる。
 脚本を覚えるようなものだ、と指で、目で追いながら頭に入れていく。発音は正しいか自信がないが、いざとなれば書いたものを見せれば良い。セリフを覚える速さはフレディのお墨付きだ。
 イヤホンを耳に嵌めて、目には異国の言葉。流れる文字を体に取り込みながら、クリーチャーは飛行機の揺れに身を任せた。


***


「お客様、到着しましたよ」
「え?あ!ああ!すまない」
にわか仕込みの勉強は、どうやら睡魔をも誘い込んだらしい。クリーチャーが気づいた時には、飛行機の揺れは客室乗務員による優しい目覚ましへとすり替わっていた。笑顔の女性はこうした客には慣れているのだろう、迷惑そうな様子は少しもない。
 そうは言っても、クリーチャーはどうにもきまりが悪くて顔が火照ってしまった。きっと、耳まで赤くなっているに違いない。昔から不意打ちに弱いのだ。慌てて立ち上がり、荷物をまとめて飛行機から降りる。熟した陽光はもう夕方に向かっていた。
「青いなあ」
空は、評判に違わずに青が強い。母国の時折訪れる澄み渡った青空とは全く異なる、明るい青だった。
 耳慣れない言葉が飛び交い、黒髪がクルクルと巻いた人々の行き交う中を泳いで渡る。わかりにくく書かれた説明を読みながら手続きをするのは手間取ったが、事前に何度も頭でシミュレーションを行った成果は無事に出すことができた。
 最後のゲートを出るまでの緊張感と言ったら!初めて舞台を踏んだ時よりも震えたかもしれない。もしかしたら間違っているんじゃないかと気が気ではなく、ずっと指先がそわそわして痛かった。自動ドアをくぐり抜けて、安堵しても尚周囲をのんびり観察する心の余裕はない。手洗いにでも行けば気が紛れるだろうか、と見回していると、不意に呼び止められた。
「ピアソンさん!」
よく通る声に、思わず背筋が伸びる。こんなところに知り合いが?二度、三度とかけられる声を追いかけて進むと、こちらに手を振る青年が目に入り足が止まった。
 一体あれはなんだ?青年が大きく手を振る度に、目深に被ったフードについた紐が踊る。自分にあんな風に声をかけてくる知り合いなど、異国にいるはずはない。
 手を振る青年の隣に並んだがっしりとした男が、そんなクリーチャーの不安を読み取ったかのようにネームプレートを取り出して示してみせた。
【ようこそ、クリーチャー・ピアソンさん!】
そしてカメラが構えられる。そうだ、自分はここに仕事に来たのだ。ようやっと体から力を抜くと、クリーチャーはトランクを転がして青年たちの傍へと近寄った。
「クリーチャー・ピアソンさんですね。ようこそ!私はジュリオ、こちらであなた方の撮影をお助けします」
「ナワーブ・サベダーです。飛行機、遅れて大変でしたね。気分とか、大丈夫ですか?」
明るく弾けるようなジュリオに続いて、手を振っていた青年が目深に被っていたフードを降ろした。榛色の瞳がキラキラと輝き、吸い寄せられてしまいそうな雰囲気が漂う。なるほどこれが人気俳優の存在感というものか、とクリーチャーは今更のように涎の跡が残ってないかと袖で口元を拭った。
「初めての海外旅行で緊張しましたけど、なんとか来ることができて良かったです。お待たせしました」
「ピアソンさんが来るまでの間に、ジュリオさんに美味しいお店を教えてもらってたんです。後で行きましょう」
おお神よ!やはり自分が見込んだ通り、この青年は育ちが良いらしい。相乗効果で自分の印象も変わることを願いながら、クリーチャーは適当な返事を吐いた。ジュリオがまくし立てる説明が頭の中に入ってこない。車に乗り込んでも、外の景色よりもナワーブの方が気になって仕方がなかった。この青年とこれから一ヶ月も生活するのか。できるのだろうか。
「着きましたよ」
空港に到着してからどれほど経ったのか、いつまでも続くような時間は無事に終わりを告げた。不審がられないように注意して、ナワーブから目を逸らす。移動中に何を話したのか記憶にないほど心が掻き乱されていた。カメラに収められた自分がまともであることを祈るばかりである。
 荷物を持って降り立った景色は、夕暮れに玩具のような色合いの壁たちが映えて賑やかだった。鐘の音が聞こえるのは、もう勉強も仕事も終えて帰る時間だと人々に告げるためだろうか。鼻をくすぐるのは魚介類を調理している香りのようである。潮と香辛料の入り混じった空気が、緊張から解き放たれたクリーチャーの胃袋を揺らした。
「ピアソンさん、上を見てください」
「上?」
階段を上る途中、不意に前を歩くナワーブが足を止める。指差す先を見れば、花のようなぽんぽんとした形の可愛らしい電球の向こうに、青が鮮やかな天井画が目に入った。空を舞う、自由の象徴の天使たちは、どれも穏やかな表情で羨ましい。この国の特産物なのだろうか。天使たちを目で追いかけて、ふと一人の天使が注意を引いた。
「あの天使、ウインクしてるんですね。洒落たデザインだ」
「やっぱり!あんたもそう見える?あ、」
いきなりナワーブの顔つきが華やぎ、鮮やかな表情と声とがクリーチャーを襲う。あんた、の響きは他人行儀を捨てて年相応の青年らしさを纏っていた。気まずそうな表情のナワーブの向こうで、ジュリオがくすくす笑ってカメラを構えている。手練れの案内人は、クリーチャーたちとそう年齢が変わらないだろうに、老成した顔つきをしていた。
「サベダーさんを案内した時、同じことをおっしゃっていたんですよ。私は気づきませんでした」
「なるほど。奇遇だな」
ナワーブと同じことを考えていたのか。どう切り返そうかと唇をモゴモゴさせている青年は、なんとも愛嬌がある。これならばうまく行きそうだ。純粋で、綺麗で、自分のようにどん底に叩き落とされることもない。
『クリーチャー・ピアソン』を殺す役割を務めるのは、自由が似合う天使こそがうってつけだ。
「サベダー君、部屋に案内してくれないか?他にも見どころがあるんだろう。それと、」
「う、」
「口調はそのままで良い。私も堅苦しいのは苦手なんだ――それに、私たちは一緒に暮らすんだろう?気楽にしよう」
「良いの?」
「構わないさ」
カメラを意識しながらも、クリーチャーは思ったままを口にしていた。脚本がない、設定もない、不安だらけのはずだというのに、不思議と心は落ち着いている。ナワーブが嬉しそうにうなずく。
 かくて、天使の手により天国の扉が開かれた。



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